い、もらった後で、相当考えてみたが、準之助氏の気持が、順逆いずれにもせよ、自分は順に素直に受けた方がよいと考えて、十円だけ自分のお小遣いに取っておいて、後は母へ送った手紙にも、もらった理由をかくさずに書いておいた。
二
不当な大金であるとは思ったが、それだけに母に送ったときの母の笑顔や、またその金に依って、一家の生活と安寧とが、一月でも三月でも支えられるということは、新子にとってはたいへんなことだった。
(たとい謝礼が多すぎても、私が小太郎さんや祥子さんに、誠意を尽すことで、それに相当して行けば……)とも新子は考えた。
ただ準之助氏がお金を呉れるときにいった言葉が、遠雷を聴くような不安を、今でもかすかに残している。
だが、とにかく他人からお金を貰うことはそれが生れて初めてのことであるだけに、新子は悲しかった。わが心があさましく寂しく思われる。
そんなことを考えながら、新子は冷たい樹の幹によりかかってぼんやりとしていた。
その時、彼女の眼を後《うしろ》から、誰かが無理に延び上って、無理に延ばした細い指先で、眼かくしをした。
「知っているわ。小太郎さんでしょう。さっきから知っていたんだから、駄目よ。」
「ウソいっている。随分驚いたくせにねえ、驚いたでしょう……」
「ええ。ええ。」
小さい手を握って、眼から離して、前へクルリと引き寄せると、きっと準之助氏が一しょだろうと、後を振り返ってみると、白いリネンの服を着た青年子爵が、二、三間後に立っていた。
子爵と新子とは、微笑《ほほえ》んだ。
昨日《きのう》、傷の手当を、かなり親切にしてくれた。
「もう、お痛みにならないんですか。」
「ええ、もう。すっかりよくなりました。いろいろご心配をかけまして……」
「外人達のテニスのトーナメントがありますよ。見にいらっしゃいませんか。」
「ええ。」
「小太ちゃんが、貴女《あなた》がきっと、ここにいらっしゃるから、誘って行こうって、僕を連れて来たんです。」青年は、何か闖入者《ちんにゅうしゃ》であるかのように、弁解した。この森が、まるで新子の森で、自分が無断ではいって来た闖入者でもあるかのように。
「南條先生は、ここが好きだねえ。」小太郎は、感に堪えたようにいった。
「テニスは、あまり見たことがないんですけれども……」と、新子が青年に答えると、小太郎は横から口を出して、
「野球なんかより簡単だよ。すぐ分るよ。カウントの取り方、僕教えるよ。」と、ませた口のきき方をした。
「でも、小太郎さんは、また何かを何かと間違えるんじゃなくって! おほほほほほ。」とからかうと、
「やい! 南條先生の意地わる!」と、いって笑いながら、武者振りついて来た。
三
新子も、祥子《さちこ》が病気になって以来、一度行ったことのあるテニス・コートの前のブレッツで、クリームを買いたいと思いながら、そのままになっているので、同行することにした。
三人は、森を抜けて、陽のよく当る白い径を、旧道の方へ歩いた。
彼女の愛人の美沢は、早く父を亡くして母親育ちであるだけに、お洒落《しゃれ》な細かい動作が、身体にしみついていて、いかにも美青年らしく見えたが、この青年はいかにも健康な、スポーツででも鍛えたらしい若人という感じがした。
話しぶりも、明るくて、気が置けなかった。
新子も、本来の明るいのびのびした気持に還っていた。
旧道に出て、洋服屋や、野菜店《ヴェジタブルショップ》や、家具店などの小さな街を歩きながら子爵は、
「南條さんは、僕の名前ご存じないでしょう。木賀逸郎といいます。どうぞよろしく。」と自分で正式に紹介した。
「はア、私は南條新子と申します。どうぞよろしく。」と、新子がすっかり親愛の度を深めた微笑で、答えると、小太郎が傍《そば》から、
「逸郎兄さんは、愛嬌がいいんだってさ。」と、いったので、子爵は急に真赤になって、
「小太坊、生意気なこというな!」と云った。
「だって、ママがパパにそう云ったんだものオ……」と、小太郎はすましていた。
コートのスタンドは、ほとんど外人ばかりだった。
子爵は、知合いらしい亜米利加《アメリカ》人夫婦と何か隔てなく、話し合っていた。新子は、子爵の英語を相当なものだと感心して聴いていた。
新子は、富も位置もあり、教養もあり、容貌にも健康にも恵まれている青年が、前川別荘に来て、高慢な夫人の、相手をしているなど、本当に夫人が好きなのであろうか。それとも、愛人がないので閑暇《ひま》なんだろうか。どちらにしても、何だか少し気の毒のように思った。
しばらく見ていると、青年はズボンのポケットから新しい四角にたたんだ麻のハンカチーフを出すと、新子に渡して、
「顔を掩《おお》うていらっしゃい。洋服ならい
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