まででしたら、私きっと後を何とか致しますわ。」と、圭子はまた引き受けてしまった。
 長女としてあまやかされ、わがままに育ったから、肉親に対しては、いつも無口で不機嫌で、殊にガッチリした新子に対してなぞ、始終いらいらしがちで、お互に語り合うようなことがなかった。だが、一旦「外面《そとづら》」となると、快活で愛想がよく、不景気のフの字も見せず、万事いやな顔などせずきれい[#「きれい」に傍点]ごとで行こうという、お嬢さまの圭子だった。
 その夜帰りのタクシの中で思うよう(お母さまに、もう一度おねだりして、ダメだったら……)。
 圭子は、今朝判箱を取るために、用箪笥を開けたとき、甲斐絹《かいき》のごく古風な信玄袋がはいっているのを、チラリと見た。あの中には、貯金の通帳がはいっているはず――あれをそっと持ち出して……。
(だって、「落伍者の群」の「彼女」は、貞操まで、お金に換えてしまうんだもの。このくらいなことしたって……)
 その夜は、少し睡眠剤を飲んでから、床に就いたのであったけれど、頭は大事決行の思考で、血が立ち騒いで、なかなかに寝つかれなかった。
 だが、そのうちに圭子は、気がついた。銀行の使いは、今までずーっと新子の役であって、それに使う実印だけは、母が判箱には入れてないで、どっか箪笥の抽斗《ひきだし》の奥ふかくしまってあるということを。……
 通帳をそっと持ち出すことはやさしいが、母の眼をしのんで、箪笥の抽斗をかき廻して実印を探し出すことは至難であるということを。
 もっと、名案がないかしら……彼女は、暗闇《くらやみ》の中でじっと眼を開けていた。
(そうだ。新子ちゃんに頼んでみよう、前川さんは、ちょっとしたことで、あんな大金を呉れるんだもの。お給金の前借なんか簡単に出来るかもしれない)
 家の生活がどうなろうと、母姉妹《おやきょうだい》をどう詐《だま》そうと、乗りかかったこの船を降りて、なんの生き甲斐があるものか。芸術のためだもの、自分が本当に生きて行くためだもの、手段なんか、どうだって――と、子供らしい向いっ気で、そんなことを思いつくと、
(そうだ! 新子ちゃん大明神だわ。明日の朝、早く電報を打とう! そうすれば、明後日までに間に合うわ)
 すぐにも新子が送金してくれるような気がして、ぞくぞくと嬉しくなってしまった。
(それにしても、必死的な退引《のっぴき》ならぬ電報の文句を!)と、圭子は考え出した。
[#改ページ]

  愛人無為




        一

 樹の根に、踝《くるぶし》を打ちつけて、青いあざを残したけれど、痛みはその時だけで、手の甲の傷も、ほんのかすり傷だった。
 それなのに木賀子爵をはじめ、夫人をのぞく人達は、新子の傷を心配してくれた。熱が下ったばかりで、起きられない祥子《さちこ》は、新子の足に、繃帯《ほうたい》を巻きたがった。
 翌日は、もうさわってみると、ほのかに痛みを感ずるというくらいだった。
 夫人も、少しテレていると見え、あれから新子に顔を合わせることを避けていた。
 小太郎はその日夏休みの復習帳に、晴というのを時と書き、曇という字を雲で間に合わせているのを、新子に指摘されて、午前中廊下をかけ廻りながら、

[#ここから1字下げ]
晴を時と間違えた
曇を雲と間違えた
テリヤを輝や(女中の名)とまちがえた
[#ここで字下げ終わり]

 という自作の即興詩を、奇妙な節をつけて、歌って歩いて、夫人から叱られて、一時からの復習の時は、殊のほか神妙であった。
 新子は、二時から祥子の部屋にいたが、母夫人の入って来る気配がしたので、そこはかと、部屋を出たが、歩いてみたくなったので、大好きな別荘前の諏訪の森へ、遊びに行った。
 地面が絶えずジメジメして、しだ[#「しだ」に傍点]が生えており、空気がひんやりしていた。
 横手の外人別荘から、小さい金髪の男の子が、ワイヤー・ヘヤードを連れて、どこどこまでもかけて行った。
 後は全く静かであった。
 新子は、美沢が(墓地の静けさ)が好きなので、よく二人で弥生町の家から、谷中の天王寺に出かけたり、省線で横浜へ行き外人墓地を高見から、眺めたりしたことを思い出した。
 この森を、美沢と一緒に歩きたいような希望が、頭の中に湧いた。
 家の前途を、一人で背負って悩んでいる新子は、時には誰かに慰め労《いたわ》られたいような気持がした。そんな気持で、美沢に会うのであったけれども、美沢がまた、どちらかといえば、新子に慰められる側の性格で、いわば新子は、美沢にとって姉的愛人だった。
 だから、新子は今まで何人《なんぴと》にも労られたことがない。
 準之助氏から、労られたのが初めてである。
 昨日《きのう》は、不当な大金を、お菓子をもらう子供のように、易々《やすやす》ともらってしま
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