方を見たとき、相手の眼が、あまりにも自分の方を、親しげに見つめているので、更に心の平静を乱された。

        二

 晴れた日と澄んだ夜と、高原の夏は、人の身体から、汚ないものを吸い取ってしまうような気がした。
 翌日は、二時の復習が了《おわ》ると、子供達は父と散歩かたがたアメリカン・ベイカリへ行く嬉しさで、無遠慮になっていた。
「先生のお洒落《しゃれ》! パパは、もうお支度が出来ているのに……」小太郎は、新子の部屋の扉を開けて、足踏みをしながら叫んだ。
 新子が、パラソルの中に、祥子を入れて玄関を出た時には、小太郎とその父は、白樺の繁みで手を振っていた。
 ニュウグランド・ホテルの前を通って、陽の眩《まば》ゆい草原の道を真直ぐに進みながら、小さい兄妹はえんじ[#「えんじ」に傍点]色にうれた野苺《のいちご》を見つけて、わざと草深い中を歩きながら両手にあまるほど苺を摘んだ。
「こんなの、甘いよ。」と妹に云いながら、小太郎が、大きな紅玉を、唇に持って行きそうにすると、
「およし。チブスになるぞ!」と、父は急に乱暴に、厳しい調子で叱った。小太郎は、いさぎよく赤い粒を、地面にバラバラと落して、父のステッキを持っている手の甲に、犬のように頬を押しつけた。それが、新子には愛らしく無邪気に見えた。
 やがて、草原の末に、ベイカリの屋根が見えると、兄妹は駈けっこを始めた。
 新子は、準之助氏と並んで、それを見送りながら、歩調は変えなかった。
「貴女《あなた》は、当分結婚なさらないのですか。」いきなり準之助氏は、新子に訊いた。
「あら、どうしてそんなことを、お訊きになりますの。昨日《きのう》は、結婚生活をつまらないとおっしゃったじゃありませんの……それに、私は駄目ですわ。私が、結婚しますと、私の家の中心になるものが無くなりますの。私は、つまり働き蜂に生れついていますの。」と、明るくいって、それから一家の状態を、恥にならぬ程度で、打ちあけた。
 準之助氏は、一々しみじみと肯《うなず》いて聴いていたが、ふと兄妹達が駈けて行ったベイカリの通りを一台の自動車が疾駆して来たのを見ると、ハッとして立ち止まった。万一、子供達が自動車に触れはしないかと心配したのであろう。
 だが、自動車が行き過ぎてしまうと、砂ほこりを浴びながら、兄妹はこちらを向いて手を振っていた。
 二人が、お互に安心した
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