てご異存はないんでしょう……」
「およしなさい!」前川は、つい苛々《いらいら》して来て、いつになく険しい声を出した。
「まあ! そんなにまで、反対していらっしゃるの。ああ分ったわ。じゃ新子さんが来ると、貴君の方で何かお差支えがおありになるの?」
「そんなものが、あるわけはないじゃないか。」前川は、あわてて打ち消した。
夫人は、先刻から前川のあらゆる表情動作を、すっかり読み取って、まず今宵はこれでいい、あまりしつこく責めると、かえって前川に警戒されるに違いないと思ったので、口まで出かかった小切手帳の問題は、そのままにして、
「そう。じゃ、私もう一度考え直してみるわ。でも、新子さんという人、後で考えるとだんだんよくなるわ。」前川には、全く謎の言葉を残して、アッサリ部屋を出て行った。
[#改ページ]
敵か味方か
一
今まで、家中《うちじゅう》で婆やの次に、起きていた新子が、夜更《よふか》し続きで、つい寝坊になり、この頃では十一時過ぎまで、寝てしまっても、なお頭の重い感じである。
女らしい始末の悪い母親と、だらしのない圭子と美和子と、それに肝心の新子までが寝坊をすると、家の中は常に雑然としている。新子も、十二時近くに起きたのでは、朝食がひどく不味《まず》い。味気ない気持で、食卓で朝刊をひろげると、ラジオの昼間演芸が、今日は新協の放送である。新子は、時計を見上げながら、スイッチを入れた。ベートーヴェンの第五シンフォニイが、たちまち家中に、溢れ出した。
美沢の家でも、よくレコードで聞いた馴染の曲だし、しかも渾然たる絃楽の、その中の一挺のヴァイオリンは、美沢の手で奏でられていると思うと、新子は、ジッと放心したように、聴き入っていた。
十月の半ばで、美沢がこの頃になると、いつも神経衰弱になる季節だといって、厭がっていたのを思い出した。
(今年は、私を清算して美和子も、清算なすったようだから、かえって激しい生彩で、芸術に精進していらっしゃるだろうが、私は……)と、考えながら、新子は何か恥しさで、身内が熱くなった。
大恩は謝せず――新子は今のようになってしまっては、前川に礼をいうことさえも、空々しいほど、世話になり過ぎ、新しい好意を辞退するのが可笑《おか》しいほど馴れてしまっている。酒場は成功して、一夜の売上げが少い時で、五十円、多ければ百円
前へ
次へ
全215ページ中185ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング