何分よろしく。」と、新子が再び立ち上って挨拶すると、
「お初《はつ》に。お名前はおききしていました。」と、さすがにかるい愛想笑いを見せた。
「どうぞ、勤めさして頂きたいと存じます。」と、新子がいうと、
「はあ。」何かふくみのあるような返事である。
「路子のお友達だし、いいだろう。」と、準之助氏がとりなしてくれると、
「ええ。それは、結構なんですの。でも、家庭教師として、家へ来て頂くとすれば、路子さんのお友達だからといって、ご遠慮ばかりしていられないところも、出来ますから。」
 新子は、急にこの美しい応接間に在って、大きな蛾《が》をでも見つけたように、襟元寒い思いがした。物を云うとき何か、一ひねりしてみないと気のすまない性格だろうか、このような言葉は初対面の折になど、云わなくてもよい、いやがらせであると思って、気持がわるくなりかけたが、ここが路子の注意だと思い、
「はあ。どうぞ、万事奥さまのお指図どおり出来るだけの努力を致したいと思います。」出来るだけ素直に、出来るだけほがらかに答えた。

        五

 新子が出来るだけ、下手《したで》に出ての哀願に、夫人はニコリともせず、
「はあ。宅とも、よく相談しまして、二、三日内に、ハッキリしたお返事をいたします。」と、どこか打ちとけない返事であった。
 もう、すっかり定《きま》ったことと安心していた新子は、急に、夫人の手で三、四尺|後《うしろ》へ、押しのけられたような気持であった。
 新子は、急にバツがわるく路子か準之助かが、何か一言取りなすような言葉をはさんでくれることを望んだが、二人とも何ともいってくれなかった。
「では、何分よろしく。」
 新子は、自分の身が、みじめに感ぜられ、モジモジしながら、暇《いとま》を乞おうとしている機先を、夫人は見事に制して、
「まあ。およろしいじゃありませんか。食事の用意を申しつけてありますから、路子さんや子供と一しょに召し上って下さいませ。私も、ご一しょだといいんですけれど、ちょっとこれから、外出致しますから、あしからず。」といいさして優美に腰を浮かせると、新子が眼のやりばにこまったほど、色っぽい眼差しで、夫君を見おろして、
「じゃ、貴君《あなた》、私は行って参りますから。」と、やさしく、しかし、誇りかに挨拶すると、子供達の方には眼もくれず、部屋を出て行ってしまった。
 子供達は、
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