こえて、前よりもっと勢いよく、呼吸《いき》をはずませながら、かけ込んで来た祥子は、父と叔母と新子と三人を等分に見廻しながら、父に、
「ママは、今ご用ですって! しばらく待っていて下さいって――」
「そう、ありがとう。」と前川氏は、子供をいたわったが、すぐ新子に、
「しばらく、どうぞ。」と、挨拶した。
子供に関する話題を中心に、三人の間にしばらく話が交わされ、二十分ばかり時間が経ったが、夫人は容易に現れては来なかった。
(何につけても、こんなに勿体《もったい》ぶるのであろうか。家庭教師の候補者などには、そうやすやすとは会わないという肚《はら》だろうか)そんな邪推が、新子の心に、ようやく萌《きざ》し始めた。
四
夫人の姿は、現れずして三十分近く経った。
準之助氏はたまりかねたと見え、
「今度は、お前が行って、ママを呼んでおいで!」と、小太郎を迎いにやった。
いつかまばゆいシャンデリヤに、灯《ひ》が入って、雨の日の昼の光では、やや重苦しく冴えなかった部屋が、急に花やかに照り返った。
やっと、廊下にほのかな衣《きぬ》ずれの音がしたかと思うと、半ば開かれた扉から、夫人が長身の姿をあらわした。
それを見ると、新子はいちはやく椅子をはなれて立ち上った。
その新子に、夫人はほほえみもせず、頭《ず》の高い挨拶をして、良人《おっと》と並んだ椅子にだまったままで腰をおろした。
主人からは、対等に扱われていたのが、たちまちドスンとばかり、雇人志願者の位置に突き落されているのであった。
いつか劇場で見た感じよりも、ずーっと若々しく、顔の色は浅黒く生々としているし、高貴に取りすましながらも、眼にも驚くほどの艶《つや》があり、気品と明快さと堂々たる奥さまぶりで、準之助氏と並べて見劣りせず、夫人がそこに腰かけたことで、この応接間の画面の感じは、その仕上げを受けて、最高の生彩を発揮したといってよかった。
眼立たないが、贅沢《ぜいたく》至極な好みの衣裳で、気持のよさそうな博多の単帯《ひとえおび》で、胴のあたりを風情《ふぜい》ゆたかにしめあげていた。
新子は、路子の注意を聴いているし、自分に会うために、衣物《きもの》を着換えたのかと思うと、いよいよかたくなって、すぐには口がきけなかった。
「この方が、南條新子さんだ。」と、準之助氏が紹介してくれたので、
「どうぞ
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