氏は、もう両袖をじっとりと濡らしている新子の手を取って、その落葉松の林の中に、見捨てられたように、建っている別荘の軒先にかけ込んだ。
 樹の細い梢など、あわれにも吹き千切られて、投槍のように飛び、樹の葉はクルクルと、不吉な紋様をえがきながら、舞い上り舞い落ちた。
 雨の水沫《しぶき》は、別荘の軒下にまで、容赦なく吹き込んで、雷はしきりなく鳴り渡って、絶え間なくあたりの空気を震わせ、嵐のシンフォニイは、今や最高潮に達していた。
 別荘の扉《ドア》を、ほとほとと叩いていた準之助氏は、にわかに元気な声をあげた。
「貸家だ、貸家だ。ここにハウス・ツー・レットとかいた紙が、剥がれている。これはちょうどいい。ちょっと失敬しましょう。ここじゃ水沫がたいへんだ。待っていらっしゃい! ここは開かないから、僕、裏へ廻って入口を見つけて来ますから。」と、雨の中へ飛び出して行った。
 新子は、夕立に悩まされながら、しかしそのために、夫人に対する感情の名残が、吹き飛ばされ、洗い去られたような気がした。そして、今までかなり遠い距離に立っていた準之助氏と、お友達か兄妹かのように、手を取り合って、自然の暴威と戦っていることが、何か物めずらしく、物新しく、びんのおくれ毛が、頬にくっつくのを気味わるく思いながらも、心は興奮し、はずんでいた。
 間もなく、傍の窓|硝子《ガラス》を、風雨に抗しながら、わずかに開けた準之助氏が、
「玄関は、内から鍵がかかって、とても開きそうにもありません。貴女は裏口から廻っていらっしゃい!」と、叫んだ。

        七

 新子も、軒下に立ってることは、とても辛かったので、いそいで軒つたいに、雨を避けながら裏口の方へ廻った。
 と、勝手口は閉《ふさ》がっていたが、そこから一間ばかり向うの半間ほどの入口の扉《ドア》が開いていた。そこからはいってみると、バスと洗面所《トイレット》との間の廊下で、空家らしい気持の悪い温気《うんき》をたたえて、壁や天井が薄白く光っている。外人が建て、外人が住んでいたらしく、畳の敷けそうな部屋は一つもなかった。
 食堂らしい部屋を通りぬけて行って、準之助氏の居ると思われる部屋をソッとのぞくと、そこは、サロンらしく壁に薪をくべるらしい大きい炉が切ってあり、中は山小屋《カッテイジ》らしく作られており、腰の低い窓が、いくつか開《あ》いている。
 その
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