っておさらいをしていらっしゃい!」と、いった。
「だってえ、おさらいといっても、僕は今日まだ、何にも先生にしてもらっていないんだもの。」と、鼻にかかった声でいうと、夫人はすぐ威丈高《いたけだか》に、
「あなた、ママの云うことを近頃聞かなくなったわねえ。早く行って、おさらいをしていらっしゃい!」と、これも新子への当てつけに、聞えた。
小太郎は、不平らしく、しかも新子の方を、心配そうに、ちらっと見て、部屋を出て行った。
新子は、こんなときには、あっさりと謝《あやま》った方がいいと思ったので、
「私、何の気もなく、ご注意したので、奥さまのおっしゃるような、そんな気持で、ご注意したのじゃございませんわ。」と下手に出ると、夫人は新子の顔を、ジロジロ見ながら、
「仕度が間違いで、支えるという字をかくのが正しいにしたところで、ここにたいへんな大問題がございますわね。」と、夫人は前よりも、更に開き直った口調だった。
新子は、夫人が更に何を云い出すのかと、呆《あ》っ気に取られて、夫人の顔を、ぼんやり見上げていると、
「子供の教育についてですねえ……」と、改まった言葉に、
「はい。」と素直に受けると、
「些細《ささい》な誤りを訂正して下さる利益と、親の云うことにも間違いがあるという観念を植えつける害悪と、差し引きが付くものでしょうかしら……」それは、思いがけない鶴の一声だった。
「まだ、十二、三の子供なんですもの。仕度なんていう字を、どう書こうと介意《かまわ》ないと思いますの。だが母としての私の云うことを、あれが信じなくなったとすると、これは取り返しのつかない一大事じゃございませんかしら。」
「はあ、ごもっともで。」新子は、そう云わずにはいられなかった。
「貴女は、失礼でございますけれど家庭教育の本末を顛倒《てんとう》していらっしゃらないでしょうか。」
新子は、先刻から、馬鹿馬鹿しくなり、こんなことで云い争っても、つまんないと思っていたが、こうまで夫人が、カサにかかって来る以上、もうこの仕事をよすほかはないと決心した。
五
綾子夫人は、指先で椅子の腕を軽く叩きながら、今までの態度を、急に無雑作な調子に崩すと、いった。
「第一貴女に、家庭教師としての嗜《たしな》みを知って頂きたいんですよ。」
それは、もう露骨な侮蔑であった。新子は、夫人の物の云い方に半ばあ
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