夫人の部屋の扉《ドア》を、ノックすると、
「どうぞ!」と、いう馬鹿丁寧な返事に、新子は針の山へ入る思いで、部屋にはいった。
 招じられたぜいたくな椅子にも、剣が植えてあるような思いである。
 夫人は、かるく一つ咳をしてから、
「後でもいいんですけれど、私いいたいことをためておくの、いやな性分ですから、すぐ来ていただいたんですの。私が教えた仕度という字、違っておりますの?」と、単刀直入であった。
「………」
 新子は、夫人の勢いを避けて、だまっていると、
「ああ書きますと、誰にも通じませんかしら……」
「いいえ、通じますわ。」
「そうでしょう。通じれば、それでいいじゃありませんか。」
「はあ。」
「言葉というものは、通用するということが、第一じゃありませんの。貴女は、英語の方は、お精《くわ》しいそうだからご存じでしょうが、保護者《パトロン》という字だって、本当に発音すれば、ペイトロンか、ペトロンでしょう。」いかにも、外国に行ったことのあるらしい、しゃれた発音であった。
「はあ。」
「でも、パトロンはパトロンでいいじゃありませんか。もう、それは日本語なんですもの。それを知ったかぶりで直すのこそ、おかしいと思いになりません。それから、大統領のリンコルンだって、本当はリンカーンでしょう。でも、リンコルンというのも、それで何だか、昔風でなつかしくっていいじゃありませんか。」
「はあ!」
「日本の言葉にだって、間違ってそのまま通用している言葉が、沢山あるでしょう。殊に仕度という字なんか、十人の中で七、八人まで、仕度とかいていやしませんかしら。」
「はあ。」
「十二、三の子供の綴方に、仕度と書いてあったからといって、それを一々直すには及ばないと思いますが。」
「はあ。」
「もっとも、子供の間違いを直すのと同時に、親の間違いを直してやろうと、おっしゃるのなら、これはまた別の問題ですが……」
「まあ! 私に、そんな……」
「だって、小太郎を、私のところへおよこしになったのは、貴女でしょう。」
「まあ決して……」

        四

 そこまで、夫人が、いったとき思いがけなく小太郎が、ひょっくり部屋の中へはいって来た。
 子供心にも、新子のことが心配になり、先生のために、何か一言釈明したかったのであろう。夫人はすばやく、それを見つけると、
「小太郎さん。貴君《あなた》は、下へ行
前へ 次へ
全215ページ中77ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング