をヒラヒラさせながら、廊下を、首をすくめ、肩を怒らしたふざけた恰好で弾丸のように走って、二階への階段を一足飛びに上りきってしまった。
 新子は、小太郎の後姿《うしろすがた》を見送りながら、これは大変なことになったと思ったが、今更|施《ほどこ》すべき策がなかった。

「ママの嘘つき!」
「何が……」
「仕度って字は、こう書くんじゃないって!」
 夫人は、美しい眉をよせて、
「ママは、その字ばかり使っていてよ。それ以外に、したく[#「したく」に傍点]と、どんな字を書くんだろう。」
 小太郎は、新子が書いた字を、母に示しながら、いった。
「こう書くのが本当だって、だから僕仮名で書いておいたのに、ママが余計なこというんだもの。ママなんぞに、直してもらわなければよかった。」
 夫人の眉は、たちまちピリピリと吊り上って、
「そうお。それで、南條先生が、わざわざ貴君《あなた》を、ここへよこしたの。」
「ううん。」小太郎は、騎虎《きこ》の勢い、そう答えた。
「じゃね、貴君の勉強の時間が了ったら、先生にお話があるから、この部屋に見えるようにいって頂戴!」
「うん。」
 母の部屋から、バタバタとかけ出した小太郎は、階段を降りようとして、下から不安そうに、上を見ている新子と顔を見合わした。
「僕、ママにそう云ったよ。だって僕が間違ったんじゃないんだもの。」と、声が高かった。
 母夫人は、小太郎の声に、新子が、すぐ階下にいると知ると、部屋から出ると、
「南條先生、下にいらっしゃるの?」と、小太郎に云った。
「うん。」
「じゃ、今の方がいいわ。すぐ、先生にママの部屋に来るように云って頂戴!」
 小太郎は、母の険しい言葉を聞くと、ようように、自分が調子に乗り過ぎて、とんだ失策をして、南條先生を窮地に陥れたことに気がつくと、かなしそうに新子を見おろしながら、階段を下りて来てさっきとはまるで違って、しょげ切った容子《ようす》で、
「ママが、先生にご用だとさ……」と、すまなさそうに云った。

        三

 今更、小太郎を咎めるわけにも行かず、といって自分のしたことを後悔する気にもなれず……とはいえ、新子にとって思いがけない災禍だった。
 小太郎が、不安そうに新子の顔を、見上げるのを、
「じゃ。ちょっと行って来ますから、貴君はおさらいをしていて頂戴ね。」と、やさしくいって二階へ上って行った。
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