桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。
 京軍の方は、毛利|内匠《たくみ》、山田市之丞、交野十郎の率いた八百の長軍、伊知地正治、野津七左衛門の率いた薩軍が主力で、それに屋張、越前、芸州等、勤王諸藩の兵が加わって一万足らずであったであろう。
 幕軍は、伏見鳥羽の両道より進んだ。まだ、ハッキリ交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。
 鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組与力同心を引き連れていた。人数も、わずかに数人で、籠手《こて》臑当《すねあて》して、手槍を持ち、小銃を持っているものは、わずかに数人で、大砲は一門もなかった。
 鳥羽街道は、むかしの羅生門に通ずる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩兵が鳥羽街道を下って来るのとぶっつかった。
 両方とも殺気立っているが、まだ戦争ではない。幕軍の方で、「徳川殿上洛せらるるにつき、我々は先駆である」
 と云ったが、藩兵は「我々の方は、未だその御沙汰なければ通しがたし」と云う。再三、押し問答の上、薩兵の方では、「然らば
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