して暗愚の将では無かったのだが、その機略威名が父信玄に遠く及ばない上に、良将を率い用いる力と眼識が無く、かく老将を抑えて自分を出そうとする我執がある。旗下の諸将との間が、うまく行かなかった事は彼の為に惜しむべきであった。跡部等が強硬に一戦を主張した裏には、信長の用間《ようかん》に陥り、佐久間信盛が戦い半ばにして裏切ることを盲信して居たからだとも伝えるが、この事は単なる伝説であろう。また跡部と共に勝頼の寵を専らにした長坂釣閑が、馬場、内藤等と争って事を誤たしむるに至ったとも云うが、長坂は此の時他の方面に出動していたから、後世史家の悪口である。長坂、跡部共に、新主勝頼の寵を誇って専断多かった事は事実らしいが、必ずしも武田家を想わざる小人輩とは為し難い。長坂は、勝頼と天目山に最期を共にして居るのである。跡部もとにかく天目山迄は同行しているのである。その時に残った侍衆は四五十人だったと云うから、跡部も相当忠義な家来であると云ってよい。ただ彼等の智略が、馬場、内藤、山県等に及ばなかった事、既に前年、争論の結果、相反目して居た。この戦の前年即ち天正二年の末、山県の宿《しゅく》で馬場、内藤及び高坂昌
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