、勝頼は父信玄の旧法を維持する事をのみ知って、余り注意を払って居なかった事は、鉄砲入手の便が、信長勝頼の両地に於て著しい相違があったとは云え、武田家の重大な手落であった。弓矢とっての旧戦法が、新しい銃器の前には、如何に無力であるかを、長篠の役は示して居るのである。
 織田徳川の戦陣が整うのを見て、十九日、勝頼も軍《いくさ》評定をした。自ら曰く、「総軍をして滝川を渡り清井田原に本陣を移し、浅木、宮脇、柳田、竹広の線に於て決戦せん」と。信玄以来の宿将、馬場美濃守信房、内藤修理昌豊、山県三郎兵衛|昌景《まさかげ》等は、これを不可であるとした。彼等は、既に中原《ちゅうげん》に覇を称《とな》えて居た信長と、海道第一の家康の連合軍が、敗れ難い陣容と準備とをもって来ったのを見抜いて居た。
 内藤等は退軍をすすめ、若《も》し敵軍跡を追わば、信州の内に引入れて後戦うがよいとした。勝頼は聴かない。そこで馬場等は、では長篠城を攻め抜いた後に退けば、武田の名にも傷つくまい。今城に鉄砲五百あるとして、味方の攻撃の際、最初五百の手負が生ずるであろう。二度目の時はそれ以下ですむ。かくして千を出でない犠牲で、武田の家
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