十七)は草部村松尾大明神鎮座の山に布陣した。これが本営であって、左翼の先陣は大久保|忠世《ただよ》兄弟、本多忠勝、榊原康政承り、右翼の軍には石川数正、酒井忠次、松平忠次、菅沼定利、大須賀康高、本多忠次、酒井|正親《まさちか》等あり、総勢八千である。信長|予《かね》てから武田の戦法を察し、対抗の戦略を立てた。元来信玄の兵法は、密集の突撃部隊を用いて無二無三に突進し、敵陣乱ると見るや、騎馬の軍隊が馳せ入ると云う手段であって、常にこの戦法の下に勝を収めて来たのである。信長は、この武田勢との正面衝突を避けた上に、新鋭の武器鉄砲を以て狙撃しようとした。これ信長の新戦術である。北は丸山、大宮辺から南は豊川の流れ近い竹広あたりまで二十余町の間、二重二重に乾堀《からぼり》を掘り土手を築き、且つ三四十間置きに出口のある木柵を張り廻《めぐ》らしめた。この土手と柵とに拠って武田勢の進出を阻《はば》み、鉄砲で打ちひしごうと云うのであるが、岐阜出陣の時、既に此の事あるを予期して、兵士に各々柵抜を持たしめたと云う。鉄砲は当時五千余を持ち来ったと云うが、この新鋭の武器に対して、信長がかかる関心を持っていたのに対して
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