雖《いえど》も、落ちていたのではない。信玄が死んでいる事さえ半信半疑で、戦前稲葉一徹が家康に向い、万一信玄が生きていて、不意に打って出たら、どうするかと云い出して、信長に叱られた位である。
とにかく、武田の武名は、迷信的に恐がられていたのである。信長の出発に際して之を危んだ旗下《きか》の諸将多く、家康も必勝を期せず、子信康を岡崎に還らしめんとした位である。
織田徳川の軍勢、設楽の高原に着くや、信長(此時四十二歳)自らは柴田勝家を従えて、設楽村極楽寺山に本陣を据えた。嫡男信忠(年十九)は河尻秀隆を従えて、矢部村勅養寺附近の天神山に、次男北畠信雄は稲葉一徹属して御堂山に、夫々陣を布《し》いた。更に川上村茶臼山には、佐久間|右衛門尉《うえもんのじょう》信盛、池田庄三郎信輝、滝川左近将監一益、丹羽長秀なんぞの勇将が控え、以上四陣地の東方には、蒲生忠三郎|氏郷《うじさと》、森庄蔵|長可《ながよし》、木下藤吉郎秀吉、明智十兵衛光秀等が陣した。都合総勢三万である。浅井朝倉を退治した信長は、此一戦大事と見てオールスター・キャストで来ているのである。
家康(年三十四)は竹広村弾正山に、三郎信康(年
前へ
次へ
全26ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング