、家康は新附の奥平貞昌をして、長篠城の城主たらしめた。
 長篠城は、甲信から参遠へ働きかける関門である。武田徳川二氏に依って、屡々《しばしば》争奪されたる所以《ゆえん》である。城は、豊川の上流なる大野川滝川の合流点に枕している。両川とも崖壁急で、畳壁の代りを成している。東は大野川が城濠の代りをなし、西南は滝川が代りを成している。
 天正三年五月勝頼一万五千の大軍を以て、長篠を囲んだ。城兵わずかに五百、殊死して防いだ。
 鳥井|強右衛門勝商《すねえもんかつあき》が、家康の援軍を求めるため、単身城を脱し、家康に見《まみ》えて援兵を乞い、直ちに引き返して、再び城に入らんとし、武田方に囚《とら》われ、勝頼を詐《あざむ》いて城壁に近より、「信長は岡崎まで御出馬あるぞ、城之介殿は八幡《はちまん》まで、家康信長は野田へ移らせ給いてあり、城堅固に持ちたまえ、三日の裡《うち》運を開かせ給うべし」と叫んで、礫《はりつけ》にせられたのは、有名な話であるから略する。
 五月十八日、信長家康両旗の援軍三万八千、長篠の西方|設楽《しだら》の高原に、山野に充ちて到来した。
 しかし、此の時の武田の軍容は、信玄死後と
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