四百騎が、悉く討死して防ぐ間を、落延びさせた。力と頼む各部隊の驍将等が悉く討死して指揮を仰ぐに由ない上に、総大将の退陣と聞いては、さしもの武田勢も乱軍である。勝頼の後備武田信友、同信光や、穴山梅雪の如きは勝頼より先に逃げ延びた程である。滝川を渡り、西や北を目指して落ちて行った。前田利家、敗走軍を追って川の辺《ほとり》に来ると、鍬形打った甲の緒を締め、最上胴の鎧著けた武者一騎、大長毛の馬を流に乗入れて、静々と引退くのを見た。落付き払った武者振只者に非ずと、利家|諸鐙《もろあぶみ》を合せて追掛けると、彼の武者また馬の頭《こうべ》を返した。透間《すきま》もなく切り合い火花を散して戦っているうち、利家|高股《たかもも》を切られて馬から下へ落された。退軍の今、首一つ二つ獲った処でと思ってか、彼の武者見下したまま、再び退こうとする処に利家の家老村井又兵衛長頼、馬を飛してやって来た。主の傷つき倒れたのを介抱しようとすると、利家「敵を逃すな」と下知した。又兵衛命のままに立向うと、大変な剛の者と見えて、忽ち又兵衛の甲の鉢を半分ほども斬り割った。それで主利家と同じ様に馬から仰向けに落されたのだが、落ち際に相手の草摺《くさずり》に取付いて、諸共に川の中に引摺り込んだ。相手が上にのし掛ったのを、又兵衛素早く腰刀を抜いて、二刀まで刺して刎返《はねかえ》したので、流石《さすが》の剛の者も参って仕舞った。武田の弓隊長|弓削《ゆげ》某と云う者だと伝える。織田徳川勢の追撃急な上に、勝頼主従の退却も、しかも滝川に橋が沢山ないのであるから頗《すこぶ》る危かった。余り周章《あわ》てて居るので、相伝の旗を棄てたままにした。本多忠勝の士原田矢之助これを分捕った。堀金平勝忠、武田勢を追いながら、「旗を棄てて逃げるとは、それで甲州武士か」と嘲笑をあびせると、武田の旗奉行振り返って、「いやその旗は旧《ふる》くなったものだから棄てたので、かけ代え此処に在り」と云って新しい大文字の旗を掲げると逃げ出した。堀「尤も千万な申分である。馬場、山県、内藤等の老将も旧物であるから棄殺ししたか」と云った。敗戦となると惨めなもので、どう云われても仕方がない。勝頼、猿橋の方を指して退いて居たが、従って居るのは初鹿野《はじかの》伝右衛門三十二歳、土屋右衛門尉弟惣蔵二十歳であった。惣蔵、容姿端麗にしてしかも剛気であったので、勝頼の寵愛深かった。惣蔵、兄右衛門尉の身を気づかって、馬を返すこと二度に及んだが、その度に勝頼も轡を返した程であった。勝頼の後三四町の処を、武田左馬之助信豊三四十騎をもって殿軍して居た。勝頼ふり返って、信豊の様子を眺めて居たが、伝右衛門を顧みて曰く、「我、信玄の時御先を馳《か》けたるによって、当家重大の紺地泥《こんじでい》の母衣《ほろ》に四郎勝頼と記したのを指した。当主となった後は左馬助に譲ったが、今見ると指して居ない。若し敵の手に渡る様なことがあれば勝頼末代までの恥である。身命を棄つるともこれを棄てては引く事は出来ない」そこで伝右衛門、左馬助の許に馳せて聞くと、「戦い余りに激しかったので串は捨て、母衣は家老の青木尾張守に持たせて置いた」と答えて尾張の首に巻き附けたのを解いて渡した。勝頼上帯に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んで後《のち》進もうとすると馬が疲労し尽して動かない。笠井肥後守この体を見て馳せ来《きた》るや、馬から飛び下り、「この馬に召さるべし」と云う。勝頼「汝馬から離れれば必ず討死することになるぞ」と云うと、恩義の故に命は軽い、忰をどうぞ御引立下さいと応《こた》え、勝頼の馬の手綱を採って押戴き、踏止まって討死した。此時にはもう追手の勢間近に迫って居たので忽ち徳川の兵十二三騎後を慕って寄せて来た。伝右衛門、惣蔵、渡合って各々一騎を切落し、惣蔵更に一騎と引組んで落ち、首を獲る処に折よく小山田|掃部《かもん》、弟弥介来かかって、辛うじて退かしめた。弥介は、伝右衛門奮戦の際、持って居た勝頼の諏訪|法性《ほっしょう》の甲を田に落したのを拾い上げた。勝頼、惣蔵を扇で煽《あお》いで労《ねぎ》らい、伝右衛門の軽傷を負ったのに自ら薬をつけてやった。黒瀬から小松ヶ瀬を渉り、菅沼|刑部《ぎょうぶ》貞吉の武節《ぶせつ》の城に入り、梅酢で渇を医やしたと云う。勝頼の将士死するもの一万、織田徳川の死傷又六千を下らなかったと伝わる。とにかく信長の方では三重にも柵を構え、それに依って武田の猛将勇士が突撃するのを阻《はば》み、武田方のマゴマゴしている所を鉄砲で打ち萎《すく》めようと云うのである。鉄条網をこしらえていて、それにひっかかるのを待って機関銃で掃射しようと云う現代の戦術その儘《まま》である。こう云う戦術にかかっては、いかに馬場信房でも山県昌景でも、生身であ
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