めようとしたが時既に遅く、両軍敗退の最中であった。修理は原隼人佐、安中左近、武田逍遙軒と共に、一の柵を馬蹄に蹴散らしたが、信長勢は二の柵に入り込んで、鉄砲ばかりを撃って居る。修理大音あげて、「上方勢は鉄砲なくしては合戦が出来ないのか、柵を離れて武田の槍先受ける勇気がないのか、汚いぞ」と呼《よばわ》った。汚いとあっては、武士の不面目とばかり、滝川一益、羽柴秀吉、柵外に出たのはよかったが、苦もなく打破られて仕舞った。畔《あぜ》を渡り泥田を渉って三の柵に逃げ込んだ。一益の金の三団子をつけた馬印を、危く奪われると云う騒ぎである。しかし修理、隼人佐、左近等も下馬して奮戦して居るうちに弾丸の為に倒れた。修理の首は、徳川の士朝日奈弥太郎が、采配と共に奪いとった。信長の策戦功を奏して、馬場、内藤の部隊が悉く将棋倒しに会って居るのを見た。だが、いかなる勇将猛士も鉄砲には敵《かな》わないのだ。「鉄砲など卑怯だぞ!」と理窟を云って見ても、相手が鉄砲を止めないのだから仕方がない。武田軍の左翼山県三郎兵衛昌景は千五百騎を率いて、一旦豊川を渡り、柵をしてない南方から攻め入ろうとしたが、水深く岸も嶮しいので、渡ることが出来ない。徳川の士、大久保七郎右衛門、同弟次右衛門、六千の兵をもって、竹広の柵の前一町計りの処に陣取って居るのを幸として、昌景一気に徳川勢の真中に突入ったので、敵味方の陣が反対になった。物凄い中央突破である。昌景即ち人数を二手に分け、大久保勢の柵内に逃げ帰るを防いだ。山県の士広瀬郷左衛門、白の幌張の指物をさし、小菅五郎兵衛赤のを指して、揚羽の蝶の指物した大久保七郎右衛門、金の釣鏡《つりかがみ》の指物の弟次右衛門と竹広表の柵の内外を馳せ合せて相戦う様は、華々しい光景であった。小菅は痛手を蒙《こうむ》って退いたが、広瀬は猶敵勢のなかを馳《か》け廻って、武者七騎を突伏せ、十三騎に手を負わしたと云うから大したものである。山県勢、大久保勢と押しつ押されつの激戦をくり返して居るうちに、弾丸で死するもの、六百に及んだ。昌景屈せず、柵を破れと下知して戦ったが、忽ちに復《また》二百余りは倒れ、疵《きず》つくものも三百を越えた。しかし手負の者も、三ヶ所以上負わなければ退かせない。昌景自身冑の吹返《ふきかえし》は打砕かれ、胸板、弦走《つるばしり》の辺を初めとして総て弾疵《たまきず》十七ヶ所に達したと伝えるから、その奮戦の程が察せられる。昌景の士志村又右衛門、昌景の馬の口を押えて、退軍して士気を新にすることを奨めた。そこで馬を返そうとすると、既に敵の重囲の中であるから、朱の前立《まえだて》を見て、音に聞えた山県ぞ、打洩すなと許り押し寄せて来る。広瀬郷左衛門、志村又右衛門等これを押え戦う暇に、昌景退こうとして、ふと柵に眼を放つと、この乱軍の中に悠々と破られた柵を修理して居る男がある。「柵の杭《くい》はかく打つもの、結び様はこの様にするもの」と云い乍《なが》ら立ち働いて居るのを見て、昌景、「彼奴《かやつ》は尋常の士ではない、打ち取れ」と馬上に突っ立つ処に、弾丸、鞍の前輪から後に射通した。采配を口に銜《くわ》え、両手で鞍の輪を押えて居たが、堪らず下に落ちた。徳川の兵|馳《はし》り寄って首を奪い、柵内に逃げもどろうとするのを志村追かけ突伏せてとり返す事を得た。昌景初め飯富源四郎と称したが、信玄その武功を賞して、武田家に由緒ある山県の名を与えたのであった。常々武将の心得を語るのに、「二度三度の首尾に心|驕《おご》る様ではならない。刀ですら錆びる。まして油断の心は大敵である。心驕ることなく、家臣の忠言を容れるのが第一である」として居たが、彼の座右の銘が勝頼に解し得なかったのは是非もない次第であった。昌景が討死の前、眼をつけた武士は、羽柴秀吉であったと伝えられる。武田左馬助、小山田兵衛尉、跡部大炊助等も別の一手をもって、弾正台の家康を目指すけれど大勢は既に決した。望月甚八郎、山県討死の処に乗入れて敗残の兵を引上げしめようとしたが、弾丸一度に九つも中り、脚と内冑を撃たれて果てた。ここに至って甲斐の武将勇卒概ね弾丸の犠牲となり終って、武田勢総敗軍の終局となる。敵浮足立ったりと見ると、織田徳川の両軍は柵外に出でて追撃戦に移った。信長の使が徳川の陣に来って、先陣せよと下知を伝えた処、大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門|信成《のぶなり》、金の軍配|団扇《うちわ》に七曜の指物さしたのが、「我主君は他人の下知を受けるものではない。内藤承って返答したりと申されよ」と云った。意気|昂《あが》って鼻いきが荒いのである。徳川の脇備《わきぞなえ》、本多平八郎、榊原小平太、直ちに勝頼の本陣に突懸った。勝頼騒がず真先に馳《か》け合せようとするのを、土屋惣蔵馬の轡《くつわ》を押え、小山田十郎兵衛以下旗本の士
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