隆の四人が小山田佐兵衛信茂、原|隼人佐《はやとのすけ》を加えて、明年度の軍事を評議した事があった。其処へ兼々《かねがね》勝頼の側姦の士と白眼視された長坂、跡部の両人がやって来た。短気な内藤は、「此席は機密な軍議の場である。信玄公|卒《しゅっ》するの時、武田家の軍機は我等四人内密に行うべきを遺言された。この大事の席に何事だ」と怒鳴ると、長坂は「勝頼一両年中に、織田徳川と決戦する覚悟である旨を受けて、軍議の処に来た」と答えた。内藤大いに怒って、「この野狐奴《のぎつねめ》が、主君を唆《そその》かして、無謀の戦を催し、武田家を亡ぼそうと云うのか。柄にない軍事を論ずる暇があらば、三嶽の鐘でも敲《たた》け」と罵《ののし》った。長坂も怒《いか》り、刀に手をかけた処、内藤は、畜生を斬る刀は持たぬとて鞘《さや》ぐるみで打とうとしたのを、人々押止めたと云う事がある。こんな遺恨から、今度の軍評定の席でも、両々相争ったわけだが、非戦論者ついに敗れたので、馬場等は、大道寺山の泉を、馬柄杓で汲みかわし、決死を盟《ちか》った。非戦諭者はそれでも諦《あきら》められずに、二十一日の決戦当日の朝、同じ非戦諭の山県昌景を代表として、勝頼に説かせたが、勝頼は「いくつになっても命は惜しいと見えるな」と皮肉を云って取合わない。奮然として退いた昌景は、同志の面々が集まって居る席に来て「説法既に無用、皆討死討死」と云い棄てて、縁側から馬に打乗り、甲《かぶと》の緒をしめるを遅しと戦場に馳せ向ったと云う。
 勇将猛士が非戦論である戦争が、うまく行くわけはない。みんな討死の覚悟を以て、無謀の軍と知りながら戦ったのである。
 勝頼戦いを決するや、長篠城監視を小山田昌行、高坂昌澄等二千の兵をもって為さしめ、鳶《とび》ヶ巣の塁以下五つの砦には兵一千を置いた。そして次の如き布陣を行った。織田徳川勢に対して正々堂々の攻撃を為すつもりである。即ち、浅木附近大宮|表《おもて》へは馬場美濃守信房先鋒として、部将穴山陸奥守梅雪(勝頼の妹聟)以下、真田源太左衛門信綱、土屋右衛門昌次、一条右衛門|大夫信就《たいふのぶなり》等、中央、下裾《しもすそ》附近柳田表へは、内藤修理昌豊を先鋒となし、部将武田逍遥軒|信廉《のぶかど》(信玄の弟)、原隼人佐、安中昌繁等。又竹広表へは、先鋒山県三郎兵衛昌景承り部将武田左馬助信豊(信玄弟の子)、小山田|右兵衛
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