名を傷つけないで退く事が出来るが、あまりに武田の武力を自負している勝頼は跡部|大炊助勝資《おおいのすけかつすけ》の言を聴いて許さない。非戦論者達は、では長篠城を抜いて勝頼を入れ、一門の武将は後陣となり、我等三名は川を越えて対陣し、持久の策を採らば、我軍の兵糧に心配ないのに対して、敵軍は事を欠いて自ら退陣するであろう、と云った。跡部等は、何で信長ほどの者が引返そうや、先方から攻め来る時は如何、と反対するので、馬場等はその時は止むを得ない、一戦するまでである、と答えた。跡部等は嘲けって、その期に及んで戦うも、今戦うも同じである、とやり返した。勝頼、今は戦うまでである、御旗、無楯《たてなし》に誓って戦法を変えじ、と云ったので、軍議は決定して仕舞った。旗とは義光以来相伝の白旗、無楯とは同じく源家重代の鎧《よろい》八領のうちの一つ、共に武田家の重宝であって、一度、これに誓う時は、何事も変ずる事が出来ない掟《おきて》であったのである。かくて信玄以来の智勇の武将等の諫言《かんげん》も、ついに用いられず、勝頼の自負と、跡部等の不明は、戦略を誤り、兵数兵器の相違の上に、更に戦略を誤ったのである。勝頼は決して暗愚の将では無かったのだが、その機略威名が父信玄に遠く及ばない上に、良将を率い用いる力と眼識が無く、かく老将を抑えて自分を出そうとする我執がある。旗下の諸将との間が、うまく行かなかった事は彼の為に惜しむべきであった。跡部等が強硬に一戦を主張した裏には、信長の用間《ようかん》に陥り、佐久間信盛が戦い半ばにして裏切ることを盲信して居たからだとも伝えるが、この事は単なる伝説であろう。また跡部と共に勝頼の寵を専らにした長坂釣閑が、馬場、内藤等と争って事を誤たしむるに至ったとも云うが、長坂は此の時他の方面に出動していたから、後世史家の悪口である。長坂、跡部共に、新主勝頼の寵を誇って専断多かった事は事実らしいが、必ずしも武田家を想わざる小人輩とは為し難い。長坂は、勝頼と天目山に最期を共にして居るのである。跡部もとにかく天目山迄は同行しているのである。その時に残った侍衆は四五十人だったと云うから、跡部も相当忠義な家来であると云ってよい。ただ彼等の智略が、馬場、内藤、山県等に及ばなかった事、既に前年、争論の結果、相反目して居た。この戦の前年即ち天正二年の末、山県の宿《しゅく》で馬場、内藤及び高坂昌
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング