長篠合戦
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)三方《みかた》ヶ原

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山県|昌景《まさかげ》

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   (数字は、JISX0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「肄のへん+欠」、第3水準1−86−31]
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 元亀三年十二月二十二日、三方《みかた》ヶ原の戦に於て、信玄は浜松の徳川家康を大敗させ、殆ど家康を獲んとした。夏目次郎左衛門等の忠死なくんば、家康危かった。
 信玄が、三方ヶ原へ兵を出したのは、一家康を攻めんとするのではなく、三河より尾張に入り岐阜を攻めて信長を退治し、京都に入らんとする大志があったからだ。
 だから、三方ヶ原の大勝後その附近の刑部《おさかべ》にて新年を迎え、正月十一日刑部を発して、三河に入り野田城を囲んだ。が、城陥ると共に、病を獲て、兵を収めて信州に入り、病を養ったが遂に立たず老将山県|昌景《まさかげ》を呼んで、「明日旗を瀬田に立てよ」と云いながら瞑目した。
 信玄死後|暫《しばら》く喪を秘したが、いくら戦国時代でも、長く秘密が保たれるものではない。
 信玄に威服していた連中は、後嗣の勝頼頼むに足らずとして、家康に※[#「肄のへん+欠」、第3水準1−86−31]《かん》を通ずるものが多い。その最たるものは、作手《つくりて》城主奥平貞昌父子だった。
 奥平家は、その地方の豪族だが、初め今川に属し、後徳川に附き、更に信玄に服し、今度勝頼に背《そむ》いて、徳川に帰順したわけである。大国と大国との間に挾まる小大名、豪族などは一家の保身術として、彼方《あちら》につき此方に付く外なかった。うまく、游泳してよい主人についた方が、家を全うして子孫の繁栄を得たわけである。
 勝頼は、自分の分国の諸将が動揺するのを見、憤激して、天正二年正月美濃に入って明智城を攻略し、同じく五年には遠江に来って、高天神城を開城せしめた。家康は、わずか十里の浜松にありながら後詰せず、信長は今切の渡《わたし》まで来たが、落城と聞いて引き返した。
 勝頼の意気軒昂たるものがあったであろう。徳川織田何するものぞと思わせたに違いない。それが、翌年|長篠《ながしの》に於て、無謀の戦いをする自負心となったのであろう。
 翌天正三年二月
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