に五つ当った。年三十一で討死である。
 此手の大将馬場信房は、一旦退いたものの直ちに引返して、手勢わずか八十をもって三の柵際に来り、前田利家、野々村三十郎等の鉄砲組の備えを追散らして居た。勇将の下《もと》弱卒なしである。が、敵は近寄らずに、鉄砲で打ちすくめようとするのである。一条右衛門大夫来って退軍をすすめた。もう此時分には、信房の右翼軍ばかりでなく、中央の内藤修理の軍も、左翼の山県三郎兵衛の軍も、敵陣深く攻め入りながらも、いずれも鉄砲の威力の前、総崩れになろうとして居たのである。一条の勧めに対して信房は、「勝頼公の退軍に殿《しんがり》して討死仕ろう」と答えた。猿橋《えんきょう》辺から出沢《すざわ》にかけて防戦したが、勝頼落延びたりと見届けると、岡の上に馬を乗り上げ、「六孫王|経基《つねもと》の嫡孫摂津守頼光より四代の孫源三位頼政の後裔馬場美濃守信房」と名乗った。塙《ばん》九郎左衛門直政の士川井三十郎突伏せて首を挙げたが、信房は敢て争わなかった。年六十二。自らの諫言を取り上げなかった主勝頼の為に、ついに老骨を戦場に晒《さら》したわけである。十八の初陣から今まで身に一つの傷を負わないと云う珍しい勇将であるが、或時若き士達に語って曰く、
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一、敵方より味方勇しく見ゆる日は先を争い働くべし。味方臆せる日は独《ひとり》進んで決死の戦いをすべし。
二、場数ある味方の士に親しみ手本とす。
三、敵の冑の吹返し俯《うつむ》き、指物動かずば剛敵、吹返し仰むき、指物動くは、弱敵なり。
四、槍の穂先上りたるは弱敵、下りたるは剛。
五、敵勢盛んなる時は支え、衰うを見て一拍子に突掛るべし。
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 と教えたと云う。
 中央の内藤修理の軍の働きも華々しいものであったが、結局は馬場信房の軍と同じ運命に陥らざるを得なかった。滝川左近将監四千余をもって佐久間の右手柳田に備えて居るのを、修理千五百を率いて押し寄せ、忽ちに一の柵を踏み破った。佐久間、滝川両軍の浮足を見て居た家康は、使をやって柵内に入り防禦すべく命じた。剛情|我儘《わがまま》の佐久間は怒って、「戦わずして崩れるのを、武田家では見崩《みくずれ》と称して大いに笑うものだ」と力み返った。家康これはいかんと云うので、自ら馬を飛して信長に事の次第を語った。信長直ちに使をやって誡《いまし》
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