一番乗であったが、陣中に貞勝、貞能、貞昌、父子無事の対面は涙ながらであったと伝える。武田の本軍、鳶ヶ巣以下の落城を知ったが、敵軍を前にして今更騎虎の勢い、退軍は出来ない。天正三年五月二十一日の暁時(丁度五時頃)武田の全軍は行動を開始した。初夏の朝風に軍馬は嘶《いなな》き、旗印ははためいて、戦機は充満した。此時、織田徳川方では丹羽勘助|氏次《うじつぐ》等を監軍とし、前田又左衛門利家等が司令する三千の鉄砲組が、急造の柵に拠って、武田勢の堅甲を射抜くべく待ち構えて居たのである。丸山、大宮を守る佐久間右衛門尉が五千騎に向って、浅木辺より進軍する武田勢三千、その真先に、白覆輪の鞍置いた月毛の馬を躍らし、卯の花|縅《おどし》の鎧に錆色の星冑|鍬形《くわがた》打ったのを着け、白旗の指物なびかせた老《おい》武者がある。武田の驍将馬場美濃守信房である。手勢七百を二手に分けると見ると、さっと一手を率いて真一文字に突入って、忽ち丸山を占領して仕舞った。そして新手を丸山の前に備えた。神速の行動に、もろくも一の柵を破られたので、明智十兵衛光秀、不破河内守等が馳せ来って応援したが、既にこの時は、二の柵まで押入られた。しかし信房の兵も鉄砲の弾に中って忽ちにして二百余人となったが、信房少しも驚かず、二の柵を取払った。真田源太左衛門信綱、同弟|兵部丞《ひょうぶのじょう》、土屋右衛門尉等が、信房に退軍をすすめに来た時には、僅か八十人に討ちなされて居た。信房は真田兄弟が防戦する間に退いた。明智の部下六七人が、真田兄弟の働き心にくしと見て迫るのを、兵部丞にっこり笑って、「滋井《しげい》の末葉|海野《うんの》小太郎幸氏が後裔真田一徳斎が二男兵部丞昌綱討ち取って功名にせよ」と名乗るや三騎を左右に斬って棄てた。自分も弾に中って死んだのだが、兄源太左衛門も青江貞次三尺三寸の陣刀をふりかぶりふりかぶり、同じ所で討死した。土屋右衛門尉も、池田紀伊守、蒲生忠三郎の備えを横合から突崩した。側の一条右衛門大夫信就に向って云うには、「某《それがし》は先月信玄公御法事の時殉死を遂げんとした処高坂昌澄に諫《いさ》められて本意なく今日まで存命した。今日この場所こそは命の棄て処である」と。進んで三の柵際まで来て、自ら柵を引抜き出した。大音声で名乗りを挙げるが、織田勢その威に恐れて誰も出合わない。雨の様な弾丸は、右衛門尉の冑《かぶと》
前へ 次へ
全13ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング