忠直卿行状記
菊池寛

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《》:ルビ
(例)家康《いえやす》

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(例)今日|井伊藤堂《いいとうどう》の

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(例)※[#「口+會」、第3水準1−15−25]
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          一

 家康《いえやす》の本陣へ呼び付けられた忠直卿《ただなおきょう》の家老たちは、家康から一たまりもなく叱り飛ばされて散々の首尾であった。
「今日|井伊藤堂《いいとうどう》の勢《ぜい》が苦戦したを、越前の家中の者は昼寝でもして、知らざったか、両陣の後を詰めて城に迫らば大坂の落城は目前であったに、大将は若年なり、汝らは日本一の臆病人ゆえ、あたら戦を仕損じてしもうたわ」と苦り切って罵ったまま、家康はつと座を立ってしまった。
 国老の本多富正《ほんだとみまさ》は、今日の合戦の手に合わなかったことについては、多少の言い訳は持ち合わして行ったのだが、こう家康から高飛車に出られては、口を出す機会さえなかった。
 で、仕方がないというよりも、這々《ほうほう》の体《てい》で本陣を退って、越前勢の陣所へ帰って来たものの、主君の忠直卿に復命するのに、どう切り出してよいか、ことごとく当惑した。
 越前少将忠直卿は、二十一になったばかりの大将であった。父の秀康卿《ひでやすきょう》が慶長十二年閏四月に薨《こう》ぜられた時、わずか十三歳で、六十七万石の大封を継がれて以来、今までこの世の中に、自分の意志よりも、もっと強力な意志が存在していることを、まったく知らない大将であった。
 生れたままの、自分の意志――というよりも我意を、高山の頂に生いたった杉の木のように矗々《ちくちく》と沖《ひひ》らしている大将であった。今度の出陣の布令が、越前家に達した時も、家老たちは腫れ物に触るように恐る恐る御前にまかり出でて、
「御所様から、大坂表へ御出陣あるよう御懇篤な御依頼の書状が到着いたしました」と、言上した。家老たちは、今までにその幼主の意志を絶対のものにする癖がついていた。
 それが、今日は家康の叱責を是非とも忠直卿の耳に入れねばならない。生れて以来、叱られるなどという感情を夢にも経験したことのない主君に対して、大御所の激しい叱責がどんな効果を及ぼすかを、彼らは恟々《きょうきょう》として考えねばならなかった。
 彼らが帰って来たと聞くと、忠直卿はすぐ彼らを呼び出した。
「お祖父様は何と仰せられた。定めし、所労のお言葉をでも賜わったであろう」と、忠直卿は機嫌よく微笑をさえ含んできいた。そうきかれると、家老たちは今さらの如く狼狽した。が、ようやく覚悟の臍《ほぞ》を決めたと見えて、その中の一人は恐る恐る、
「いかいお思召し違いにござります。大御所様には、今日越前勢が合戦の手に合わざったを、お怨みにござります」といったまま、色をかえて平伏《ひれふ》した。
 人から非難され叱責されるという感情を、少しも経験したことのない忠直卿は、その感情に対してなんらの抵抗力も節制力も持っていなかった。
「えい! 何という仰《おお》せだ。この忠直が御先《おさき》を所望してあったを、お許されもせいで、左様な無体《むたい》を仰せらるる。所詮は、忠直に死ね! というお祖父様の謎じゃ。其方たちも死ね! 我も死ぬ! 明日の戦いには、主従|挙《こぞ》って鋒鏑《ほうてき》に血を注ぎ、城下に尸《かばね》を晒《さら》すばかりじゃ。軍兵にも、そう伝えて覚悟いたさせよ」と叫んだ忠直卿は、膝に置いていた両手をぶるぶると震わせたかと思うと、どうにも堪らないように、小姓の持っていた長光《ながみつ》の佩刀《はいとう》を抜き放って、家老たちの面前へ突きつけながら、
「見い! この長光で秀頼《ひでより》公のお首《しるし》をいただいて、お祖父様の顔に突きつけてみせるぞ」と、いうかと思うと、その太刀を二、三度、座りながら打ち振った。まだ二十を出たばかりの忠直卿は、時々こうした狂的に近い発作にとらわれるのであった。
 家老たちも、御父君秀康卿以来の癇癪《かんしゃく》を知っているために、ただ疾風《はやて》の過ぎるのを待つように耳を塞いで突伏《つっぷ》しているばかりであった。

 元和《げんな》元年五月七日の朝は、数日来の陰天名残りなく晴れて、天色ことのほか和清《わせい》であった。
 大坂の落城は、もう時間の問題であった。後藤又兵衛、木村|長門《ながと》、薄田隼人生《すすきだはいとのしょう》ら[#「隼人生ら」はママ]、名ある大将は、六日の戦いに多くは覚悟の討死を遂げてしまって、ただ真田|左衛門《さえもん》や長曾我部盛親《ちょうそがべもりちか》や、毛利|豊前守《ぶぜんのかみ》などが、最後の一戦を待っているばかりであった。
 将軍秀忠は、この日|寅《とら》の刻に出馬した。松平|筑前守利常《ちくぜんのかみとしつね》、加藤|左馬助嘉明《さまのすけよしあき》、 黒田|甲斐守長政《かいのかみながまさ》を第一の先手として旗を岡山の方へと進めた。
 家康は卯《う》の刻、輿《こし》にて進発した。藤堂高虎《とうどうたかとら》が来合わせて、
「今日は御具足を召さるべきに」というと、家康は例のわるがしこそうな微笑を洩しながら、
「大坂の小伜を討つに、具足は不用じゃわ」といって、白袷《しろあわせ》に茶色の羽織を着、下括《しもくく》りの袴《はかま》を穿いて手には払子《ほっす》を持って絶えず群がってくる飛蠅《とびはえ》を払っていた。内藤|掃部頭正成《かもんのかみまさなり》、植村|出羽守家政《でわのかみいえまさ》、板倉|内膳正重正《ないぜんのしょうしげまさ》ら近臣三十人ばかりが輿に従って進んだ。
 本多|佐渡守正純《さどのかみまさずみ》は、家康と寸も違わぬ服装で、山輿に乗って家康の後に、すぐ引き添うた。
 見ると、岡山口から天王寺口にかけて、十五万に余る惣軍は、旗差物を初夏の風に翻し、兜の前立物を日に輝かし、隊伍を整え陣を堅めて、攻撃の令の下るのを今や遅しと待っていた。
 が、攻撃の令は容易に下らないのみか、御所の使番が三騎、白馬を飛ばして、諸陣の間を駆け回りながら、
「義直《よしなお》、頼宣《よりのぶ》の両卿を、とりかわせ給うにより、先手|軍《いくさ》を始めることしばらく延引し、馬をば一、二町も退け、人々馬より下り、槍を手にし重ねての命を待つべし」と、触れ渡った。
 家康も、今日を最後の手合せと見て、愛子の義直、頼宣の二卿に兜首の一つでも取らせてやりたいという心があったのだろう。が、この布令をきいた気早の水野勝成《みずのかつなり》は、使番を尻目にかけながら、
「はや巳《み》の刻に及び候。茶臼山の敵陣次第にかさみ見えて候。速かに戦いを取り結びて然るべし、と大御所に伝えよ」と怒鳴った。が、この二人の使番が引き取ったかと思うと、再び四騎の使番が惣軍の間を縦横に飛び違って、
「方々、合戦をとりかくべからず、しずかに重ねての令を待つべし」とふれ渡った。
 しかし、昨夜の興奮を持ち続けて、ほとんど不眠の有様で、今日の手合せを待っていたわが越前少将忠直卿は、かかる布令を聞かばこそ、家老|吉田修理《よしだしゅり》に真っ先かけさせ、国老の両本多をはじめ、三万に近い大軍を、十六段に分け、加賀勢の備えたる真ん中を駆け抜け、加賀勢の怒り止むるに答えず、無二無三に天王寺の方、茶臼山の前までおし詰め、ここの先手本多|出雲守忠朝《いずものかみただとも》の備えより少し左に、鶴翼《かくよく》に陣を張った。
 この時初めて、将軍から、
「城兵は寄手《よせて》を引き寄せて、夜を待つように見え候、早く戦いを令すべし」と、いう軍令が諸陣の間にふれ渡された。
 が、忠直卿は軍令の出ずるのを待ってはいなかった。本多忠朝の先手が、二、三発敵にさぐり[#「さぐり」に傍点]の鉄砲を放つと、等しく越前勢たちまち七、八百挺の鉄砲を一度に打ち掛け、立ち籠めた煙の中を潜って、十六段の軍勢林の動くがごとく、一同茶臼山に打ってかかった。
 青屋口から茶臼山にかけての軍勢は、真田|左衛門尉幸村《さえもんのじょうゆきむら》父子、少し南に伊木七郎|右衛門遠雄《えもんとおお》、渡辺|内蔵助糺《くらのすけただす》、大谷大学|吉胤《よしたね》らが固めて、総勢六千をわずかに出ているに過ぎなかった。
 ことに越前勢は目に余る大軍なり、大将忠直卿は今日を必死の覚悟と見えて、馬上に軍配を捨てて大身の槍をしごきながら、家臣の止むるをきかず、先へ先へと馬を進められた。
 大将がこの有様であるから、軍兵ことごとく奮い立って、火水になれと戦ったから、越前勢の向うところ、敵勢草木のごとく靡《なび》き伏して、本多|伊予守忠昌《いよのかみただまさ》が、城中にて撃剣の名を得たる念流左太夫《ねんりゅうさだゆう》を討ち取ったをはじめとし、青木新兵衛、乙部《おとべ》九郎兵衛、萩田|主馬《しゅめ》、豊島主膳《とよしましゅぜん》等、功名する者|数多《あまた》にて、茶臼山より庚申堂《こうしんどう》に備えたる真田勢を一気に斬り崩し、左衛門尉幸村をば西尾|仁左衛門《にざえもん》討ち取り、御宿越前《みしゅくえちぜん》をば野本|右近《うこん》討ち取り、逃ぐる城兵の後を慕うて、仙波口より黒門へ押入り旗を立て、城内所々に火を放った。
 敵の首を取る三千六百五十二級、この日の功名忠直卿の右に出ずるはなかった。
 忠直卿は茶臼山に駒を立てていたが、越前勢の旗差物が潮のように濠を塞ぎ、曲輪《くるわ》に溢れ、寄手の軍勢から一際鋭角を作って、大坂城の中へ楔《くさび》のごとく食い入って行くのを見ると、他愛もない児童のように鞍壺《くらつぼ》に躍り上って欣《よろこ》んだ。
 先手の者が馳せ帰って、
「青木新兵衛大坂城の一番乗り仕って候」と注進に及ぶと、忠直卿は相好を崩されながら、
「新兵衛の武功第一じゃ――五千石の加増じゃと早々伝えよ」と、勇み立とうとする乗馬を、乗り静めながら狂気のごとくに叫んだ。
 武将として何という光栄であろう。寄手をあれほどに駆け悩ました左衛門尉の首を挙ぐるさえあるに、諸家の軍勢に先だって一番乗りの大功をわが軍中に収むるとは、何という光栄であろうと、忠直卿は思った。
 忠直卿は家臣らの奇跡のような働きを思うと、それがすべて自分の力、自分の意志の反映であるように思われた。昨日祖父の家康によって彼の自尊心に蒙らされた傷が、拭い去られたごとく消失したばかりでなく、忠直卿の自尊心は前よりも、数倍の強さと激しさを加えた。
 大坂城の寄手に加わっている百に近い大名のうち、功名自分に及ぶ者は一人もないと思うと、忠直卿は自分の身体が輝くかと思うばかりに、豊満な心持になっていた。が、それも決して無理ではない。驍勇《ぎょうゆう》無双の秀康卿の子と生れ、徳川の家には嫡々の自分であると思うと、今日の武勲のごときは当然過ぎるほど当然のように思われて、忠直卿は、得々たる感情が心のうちに洶湧《きょうゆう》するのを制しかねた。
「お祖父様は、この忠直を見損のうておわしたのじゃ。御本陣に見参してなんと仰せられるかきこう」と、思いつくと、忠直卿は岡山口へ本陣を進めていた家康の膝下《しっか》に急いだのである。
 家康は牀几《しょうぎ》に倚って諸大名の祝儀を受けていたが、忠直卿が着到すると、わざわざ牀几を離れ、手を取って引き寄せながら、
「天晴《あっぱれ》仕出かした。今日の一番功ありてこそ誠にわが孫じゃぞ。御身の武勇|唐《もろこし》の樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》にも右《みぎ》わ勝《まさ》りに見ゆるぞ。まことに日本樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]とは御身のことじゃ」と、向う様に褒め立てた。
 一本気な忠直卿は、こう褒められると涙が出るほど嬉しかった。彼は同じ人から昨日叱責された恨みなどは、もう微塵も残っていなかった。
 彼はその夜、自分の陣所へ帰って来ると、家臣をあ
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