つめて大酒宴を催した。自分が何よりも強く、誰人《だれびと》よりも勝って、祖父家康の賞め言葉の「日本樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]」という言葉が、まだ物足りぬようにさえ思われ出した。
彼は大坂城がまったく暮れてしまった空に、まだところどころ真紅に燃え盛っているのを見ながら、それを今日の自分の大功の表章として享楽しながら、しきりに大杯を重ねるのであった。
得意な上ずった感情のほかには、忠直卿の心には何物も残っていなかった。
越えて翌月の五日に城攻めに加わった諸侯が、京の二条城に群参した時に、家康は忠直卿の手を取りながら、
「御身が父、秀康世にありしほどは、よく我に忠孝を尽くしてくれたるわ、汝はまたこのたび諸軍に優れし軍忠を現したること、満足の至りじゃ。これによって感状を授けんと思えど、家門の中なればそれにも及ぶまい。わが本統のあらん限り、越前の家また磐石のごとく安泰じゃ」といいながら、秘蔵の初花《はつはな》の茶入を忠直卿に与えた。忠直卿はこの上なき面目を施して、諸大名の列座の中に自分の身の燦として光を放つごとく覚えた。彼は天下に欠くるものもないようなみち足りた感情が、胸のうちにむずむずと溢れてくるのを覚えた。元より彼の意志がなんらの制限を蒙らず、彼の感情が常に豊満していることは、決して今に始まったことではなかった。幼年時代からも、彼の意志と感情とは外部からはなんらの抑制も被らず、思うままに溢れていたのであった。彼は今までいかなることに与《たずさ》わっても人に劣り、人に負けたという記憶を持っていなかった。幼年時代に破魔弓《はまゆみ》の的を競えば、勝利者は必ず彼であった。福井の城下へも京の公卿《くげ》が蹴鞠《けまり》の戯れを伝えて、それが城中にもしばしば行われた時、最も巧みに蹴る者は彼であった。囲碁将棋|双六《すごろく》というもてあそび[#「もてあそび」に傍点]ものにおいても、彼は大抵の場合勝者であった。元より弓馬槍剣といったような武士に必須な技術においては、彼の技量はたちまちに上達して、最初同格であった近習たちをぐんぐん追い越して、家中においてその道に名誉の若武者たちにも、たちまちに打ち勝つほどの上達を示すのを常とした。
こうして、周囲の者に対する彼の優越感情は年と共に培われて来た。そして、自分は家臣共からはまったく質《たち》の違った優良な人格者であるという確信を、心の奥深く養ってしまったのである。
が、忠直卿の心には、家中の人間の誰よりも立ち勝っているという確信はあるものの、今度大坂に出陣して以来は、功名を競う相手は、自分と同格な諸大名であるので、もしや自分が彼らの何人《なんびと》かに劣ってはいはしまいか、ことに武将としては最も本質的な職務たる戦争において、思わざる不覚を取りはしまいかと、少しく憂慮を懐かぬわけにはいかなかった。果して五月六日の手合せには、ついに出陣の時刻を遅らせたために、思わぬ不覚を取って、今まで懐いておった強い自信を危く揺がせようとしたのであったが、同じ七日の城攻めの功名によって傷ついた自信は、名残りなく償われたばかりでなく、一番乗りの功を収めて、越前勢の武名惣軍を圧するに至ったのであるから、自分が家臣の誰人よりも秀れているという忠直卿の自信が、今ではもっと拡大して、自分は城攻めに備わった六十諸侯の何人《なんびと》よりも秀れているという自信に移りかけていた。大坂陣を通じて三千七百五十級の首級《しるし》を挙げ、しかも城将左衛門尉幸村の首級を挙げたものは、忠直卿の軍勢に相違なかったのだ。
忠直卿は初花の茶入と、日本樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]という美称とを、自分が何人よりも秀れたる人間であるという証券として心のうちに銘じた。
晴々とした心持であった。そこに並んでいる大名小名百二十名は、ことごとく忠直卿に賛美の瞳を向けているように思われた。
彼は今まで自分の臣下の何人よりも、自分が優秀な人間であることを誇りとしていた。が、比べている相手はことごとく自分の臣下であることが物足らなかった。然るに、今は天下の諸侯の何人よりも真っ先に、大御所から手を取って歓待を受けている。
自分には伯父に当る義直卿も頼宣卿も、何の功名をも挙げていない。まして同じく伯父に当る越後侍従|忠輝《ただてる》卿は、七日の合戦の手に合わず散々の不首尾である。伊達、前田、黒田という聞えた大藩の勲功も、越前家の功名の前には月の前の螢火よりもまだ弱い。
こう考えると、忠直卿は家康の過ぐる日の叱責によって、一旦傷つけられようとした他人に対する優越感が、見事に回復されたばかりでなく、一旦傷つけられただけにその反動として、回復されたそれは以前のものよりも、もっと輝かしい力強いものであった。
こうして越前少将忠直卿は、天下第一人といったような誇りを持しながら、その年八月、都を辞して揚々とした心持で、居城越前の福井へ下った。
二
越前北の庄の城の大広間に、いま銀燭は眩《まばゆ》いばかりに数限りもなく燃えさかっている。その白蝋が解けて流れて、蝋受けの上にうずたかく溜っているのを見れば、よほど酒宴の刻《とき》が移っているのであろう。
忠直卿は国に就かれて以来、昼間は家中の若武士を集めて弓馬槍剣といったような武術の大仕合を催し、夜は彼らをそのままに引き止めて、一大無礼講の酒宴を開くのを常とした。
忠直卿は、祖父の家康から日本|樊※[#「口+會」、第3水準1−15−25]《はんかい》と媚びられた名が、心を溶かすように嬉しくて堪らなかった。彼は家中の若|武士《ざむらい》と槍を合わし、剣を交じえ、彼らを散々に打ち負かすことによって、自分の誇りを養う日々の糧《かて》としていたのであった。
今も、忠直卿を上座として、一段下った広間に大きい円形を描いている若武士は、数多い家中の若者の中から選ばれた武芸の達者であった。まだ前髪のある少年も打ち交じっていたが、いずれも筋骨逞しく、溌剌たる瞳を持っている。
が、城主の忠直卿の風貌は、彼らよりも一段秀れて颯爽たるものであった。やや肉落ちて瀟洒《しょうしゃ》たる姿ではあるが、その炯々《けいけい》たる瞳はほとんど怪しきまでに鋭い力を放って、精悍の気眉宇の間に溢れて見えた。
忠直卿は、今微酔の回りかけている目を開いて、一座をずうっと見回された。
そこに居並んでいる百に余る成年は、皆自分の意志によっては、水火をも辞さない人々であることを思うと、彼は心の内からこみ上げて来る、権力者に特有な誇りを感ぜずにはいなかった。
が、彼の今宵の誇りはそれだけには止まっていなかった。彼は武士としての実力においても、ここに集っているすべての青年に打ち勝ったということが、彼の誇りを二重のものにしてしまった。
彼は今日もまた、家臣を集めて槍術の大仕合を催した。それは家中から槍術に秀れた青年を集めて、それを二組に分けた紅白の大仕合であった。
そして、彼自ら紅軍に大将として出場したのである。仕合の形勢は、始終紅軍の方が不利であった。出る者も、出る者も、敵のためにばたばたと倒されて、紅軍の副将が倒れた時には、白軍にはなお五人の不戦者があった。
その時に、紅軍の大将たる忠直卿は、自ら三間柄の大身の槍をりゅうりゅうと扱《しご》いて、勇気凜然と出場した。まことに山の動くがごとき勢いであった。白軍の戦士は見る見るうちに威圧された。最初に出た小姓頭の男はかねがね忠直卿の猛勇を恐れているだけに、槍を合わすか合わさぬかに、早くも持っていた槍を巻き落されて、脾腹《ひばら》の辺を突かれると、悶絶せんばかりにへたばってしまった。続く馬回りの男とお納戸《なんど》役の男も、一溜りもなく突き伏せられてしまった。が、白軍の副将の大島左太夫《おおしまさだゆう》という男は、指南番大島左膳の嫡子であって、槍を取っては家中無双の名誉を持っていた。
「殿のお勢いも、左太夫にはちと難しかろう」という囁きが、いずこともなく起こった。が、激しく七、八合槍を合わせたかと見ると、左太夫は、したたかに腰の辺を一突き突かれて、よろめく所をつけ入った忠直卿のために、再び真正面から胸の急所を突かれていた。見物席にいた家中一統は、思う存分に喝采した。忠直卿は、やや息のはずまれるのを制しながら、静かに相手の大将の出るのを待った。心のうちは、いつものように得意の絶頂であった。
白軍の大将は小野田右近《おのだうこん》といった。十二の年から京における槍術の名人|権藤左門《ごんどうさもん》に入って、二十の年には、師の左門にさえ突き勝つほどの修練を得ていた。が、忠直卿は何物をも恐れない。「えい!」と鋭く声を掛けられると、猛然として突き掛った。ただ技術の力というよりも、そこには六十七万石の国主の勢いさえ加わるごとく見えた。二十合にも近い激しい戦いが続いたかと思うと、右近は右の肩先に忠直卿の激しい一突きを受けて、一間ばかり退くと、
「参りました」と、平伏してしまった。
見物席の人々は、北の庄の城の崩るるばかりに喝采した。忠直卿は得意の絶頂にあった。上席に帰ると、彼は声を揚げて、
「皆の者大儀じゃ。いでこれから慰労の酒宴を開くといたそうぞ」と、叫んだのであった。
彼は近頃にない上機嫌であった。酒宴の進むにつれ、寵臣は代る代る彼の前に進んだ。
「殿! 大坂陣で矢石《しせき》の間を往来せられまして以来は、また一段と御上達遊ばされましたな。我らごときは、もはや殿のお相手は仕りかねます」と申し上げた。大坂陣の話をさえすれば、忠直卿は他愛もなく機嫌がよかった。
が、忠直卿もいたく酔ってしまった。一座を見ると、正体もなく酔い潰れている者が大分多くなっている。管をまく者もある、小声で隆達節《りゅうたつぶし》を唄っている者もある。酒宴の興は、ほとんど尽きかけている。
忠直卿はふと奥殿に漲《みなぎ》っている異性のことを思い出すと、男ばかりの酒宴が殺風景に思われて来た。彼はつと立って、
「皆の者許せ!」といい捨てたまま座を立った。さすがに酔い潰れた者も、居住いを正して平伏した。今まで眠りかけていた小姓たちは、はっと目をさまして主君の後を追った。
忠直卿が、奥殿へ続く長廊下へ出ると、冷たい初秋の風が頬に快かった。見ると、外は十日ばかりの薄月夜で、萩の花がほの白く咲きこぼれている辺から、虫の声さえ聞えて来る。
忠直卿は、庭へ下りてみたくなった。奥殿からの迎いの侍女たちを帰して、小姓を一人連れたまま、庭に下り立った。庭の面には、夜露がしっとりと降りている。微かな月光が、城下の街を玲瓏《れいろう》と澄み渡る夜の大気のうちに、墨絵のごとく浮ばせている。
忠直卿は、久し振りにこうした静寂の境に身を置くことを欣《よろこ》んだ。天地は寂然《じゃくねん》として静かである。ただ彼が見捨ててきた城中の大広間からは、雑然たる饗宴の叫びが洩れてくる。それも彼が座を立ってからは、一段と酒席が乱れたとみえ、吾妻拳を打つ掛声まで交って聞える。が、それもよほどの間隔があるので、そううるさくは耳に響いて来ない。
忠直卿は萩の中の小道を伝い、泉水の縁を回って小高い丘に在る四阿《あずまや》へと入った。そこからは信越の山々が、微かな月の光を含んでいる空気の中に、朧《おぼろ》に浮いて見える。忠直卿は、今までの大名生活においてまだ経験したことのないような感傷的な心持にとらわれて、思わずそこに小半刻を過した。
すると、ふと人声が聞える。今まで寂然として、虫の声のみが淋しかった所に人声が聞え出した。声の様子でみると、二人の人間が話しながら、四阿の方へ近よってくるらしい。
忠直脚は、今自分が享受している静寂な心持が、不意の侵入者によって掻き乱されるのが厭であった。
しかし、小姓をして、近寄って来る人間を追わしむるほど、今宵の彼の心は荒《すさ》んではいなかった。二人は話しながら、だんだん近づいて来る。四阿のうちへは月の光が射さぬので、そこに彼らの主君がいようとは、夢にも気付いていないらしい
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