仮睡のうちにまざまざと現れているように思われた。
忠直卿は思った。この女も、自分に愛があるというわけでは少しもないのだ。この女の嫣然《えんぜん》たる姿態や、妖艶な媚は皆|上部《うわべ》ばかりの技巧なのだ。ただ、大金で退引《のっぴき》ならず身を購《あがな》われ、国主という大権力者の前に引き据えられて是非もなく、できるだけその権力者の歓心を得ようという、切羽詰まった最後の逃げ道に過ぎないのだ。
が、この女が自分を愛していないばかりでなく、今まで自分を心から愛した女が一人でもあっただろうかと、忠直卿は考えた。
彼は今まで、人間同士の人情を少しも味わわずに来たことに、この頃ようやく気がつき始めた。
彼は、友人同士の情を、味わったことさえなかった。幼年時代から、同年輩の小姓を自分の周囲に幾人となく見出した。が、彼らは忠直卿と友人として交わったのではない。ただ服従をしただけである。忠直卿は、彼らを愛した。が、彼らは決してその主君を愛し返しはしなかった。ただ義務感情から服従しただけである。
友情はともかく、異性との愛は、どうであっただろう、彼は、少年時代から、美しい女性を幾人となく自分の周囲に支配した。忠直卿は彼らを愛した。が、彼らの中の何人が彼を愛し返しただろう。忠直卿が愛しても、彼らは愛し返さなかった。ただ、唯々《いい》として服従を提供しただけである。彼は、今も自分の周囲に多くの人間を支配している。が、彼らは忠直卿に対して、人間としての人情の代りに、服従を提供しているだけである。
考えてみると、忠直卿は恋愛の代用としても服従を受け、友情の代りにも服従を受け、親切の代りにも服従を受けていた。無論、その中には人情から動いている本当の恋愛もあり、友情もあり、純な親切もあったかも知れなかった。が、忠直卿の今の心持から見れば、それが混沌として、一様に服従の二字によって掩《おお》われて見える。
人情の世界から一段高い所に放り上げられ、大勢の臣下の中央にありながら、索莫たる孤独を感じているのが、わが忠直卿であった。
こうした意識が嵩ずるにつれ、彼の奥殿における生活は、砂を噛むように落莫たるものになって来た。
彼は、今まで自分の愛した女の愛が不純であったことが、もう見え透くように思われた。
自分が、心を掛けるとどの女も、唯々諾々《いいだくだく》として自分の心のままに従った。が、それは自分を愛しているのではない、ただ臣下として、君主の前に義務を尽くしているのに過ぎなかった。彼は、恋愛の代りに、義務や服従を喫するのに、飽き果ててしまっていた。
彼の生活が荒《すさ》むに従って、彼は単なる傀儡《かいらい》であるような異性の代りに、もっと弾力のある女性を愛したいと思った。彼を心から愛し返さなくてもいいから、せめては人間らしい反抗を示すような異性を愛したいと思った。
そのために、彼は家中の高禄の士の娘を、後房へ連れて来させた。が、彼らも忠直卿のいうことを、殿の仰せとばかり、ただ不可抗力の命令のように、なんの反抗を示さずに忍従した。彼らは霊験あらたかな神の前に捧げられた人身御供のように、純な犠牲的な感情をもって忠直卿に対していた。忠直卿は、その女たちと相対していても、少しも淫蕩な心持にはなれなかった。
彼の物足りなさは、なお続いた。彼は夫の定まっている女なら、少しは反抗もするだろうと思った。彼は、命じて許婚《いいなずけ》の夫ある娘を物色した。が、そうした女も、忠直卿の予期とは反して、主君の意志を絶対のものにして、忠直卿を人間以上のものに祭り上げてしまった。
もうこの頃から、忠直卿の放埒《ほうらつ》を非難する声が、家中の士の間にさえ起った。
が、忠直卿の乱行は、なお止まなかった。許婚の夫ある娘を得て、少しも慰まなかった彼は、さらに非道な所業を犯した。それは、家中の女房で艶名のあるものを私《ひそか》に探らしめて、その中の三名を、不時に城中に召し寄せたまま、帰さなかったことである。
主君の御乱行ここに極まるとさえ、嘆くものがあった。
夫からの数度の嘆願にかかわらず、女房は返されなかった。重臣は、人倫の道に悖《もと》る所業として忠直卿を強諫《きょうかん》した。
が、忠直卿は、重臣が諫むれば諫むるほど、自分の所業に興味を覚ゆるに至った。
女房を奪われた三人の家臣のうち、二人まで忠直卿の非道な企ての真相を知ると、君臣の義もこれまでと思ったと見え、いい合わせたごとく、相続いて割腹した。
横目付からその届出があると、忠直卿は手にしていた杯を、ぐっと飲み干されてから、微かな苦笑を洩されたまま、なんとも言葉はなかった。家中一同の同情は、翕然《きゅうぜん》として死んだ二人の武士の上に注がれた。「さすがは武士じゃ。見事な最期じゃ」と、褒めそやす者さえあった。が、人々はこの二人を死せしめた原因を、ただ不可抗力な天災だと考えていた。一種の避くべからざる運命のように思っていた。
二人が前後して死んでみると、家中の人々の興味は、妻を奪われながら、只一人生き残っている浅水与四郎《あさみずよしろう》の身に集っていた。
そして、妻を奪われながら、腹を得切らぬその男を、臆病者として非難するものさえあった。
が、四、五日してから、その男は飄然として登城した、そして、忠直卿にお目通りを願いたいと目付まで申し出《い》でた。が、目付は、浅水与四郎をいろいろに宥《なだ》め賺《すか》そうとした。
「なんと申しても、相手は主君じゃ。お身が今、お目通りに出たら必定お手打ちじゃ。殿の御非道は、我人《われひと》共によく分かっている、がなんと申しても相手は主君じゃ」
が、与四郎は断然としていい放った。
「たといいかがなろうとも、お目通りを願うのじゃ。たとえ身は八劈《やつざ》きにされようとも、念ないことじゃ。是非お取次ぎ下されい」と、必死の色を示した。
目付は、仕方なく白書院に詰めている家老の一人へ、その嘆願を伝えた。それを聞いた老年の家老は、「与四郎めは、血迷うたと見えるな。主君の御無理は分かっていることじゃが、この場合腹をかっ切って死諫《しかん》を進めるのが、臣下としての本分じゃ。他の二人はよう心得ているに、与四郎めは女房を取られたので血迷うたと見える。かほどの不覚人とは思わなかったに」と囁いた。
家老は、なおブツブツと口小言をいいながら、小姓を呼んで、そのことを渋々ながら忠直卿の耳に伝えしめた。
すると、忠直卿は、思いのほかに機嫌斜めならずであった。
「ははは、与四郎めが、参ったか。よくぞ参りおった。すぐ通せ! 目通り許すぞ」と、呼ばれたが、この頃絶えて見えなかった晴れがましい微笑が、頬の辺に漂うた。
しばらくすると、忠直卿の目の前に、病犬のように呆《ほう》けた与四郎の姿が現れた。数日来の心労に疲れたと見え、色が蒼ざめて、顔中にどことなく殺気が漂っている。そして、その瞳の中には、二筋も三筋も血を引いている。
忠直卿は生来初めて、自分の目の前に、自分の家臣が本当の感情を隠さず、顔に現しているのを見た。
「与四郎か! 近う進め!」と、忠直卿は温顔をもってこういわれた。なんだか、自分が人間として他の人間に対しているように思って、与四郎に対して、一種の懐しさをさえ覚えた。主従の境を隔つる膜が除かれて、ただ人間同士として、向い合っているように思われた。
与四郎は、畳の上を三反ばかり滑り寄ると、地獄の底からでも、洩れるような呻き声を出した。
「殿! 主従の道も、人倫の大道よりは小事でござるぞ。妻を奪われましたお恨み、かくのごとく申し上げまするぞ」と、いうかと思うと、与四郎は飛燕のごとく身を躍らせて、忠直卿に飛びかかった。その右の手には、早くも匕首《あいくち》が光っていた。が、与四郎は、軽捷な忠直卿にわけもなく利腕《ききうで》を取られて、そこに捻じ伏せられてしまった。近習の一人は、気を利かせたつもりで、小姓の持っていた忠直卿の佩刀《はいとう》を彼に手渡そうとした。が、忠直卿はかえってその男を斥《しりぞ》けた。
「与四郎! さすがに其方《そち》は武士じゃのう」と、いいながら、忠直卿は取っていた与四郎の手を放した。与四郎は、匕首を持ったまま、面《おもて》も揚げず、そこに平伏した。
「其方の女房も、さすがに命を召さるるとも、余が言葉に従わぬと申しおった。余の家来には珍しい者どもじゃ」と、いったまま、忠直卿は心から快げに哄笑《こうしょう》した。
忠直卿は、与四郎の反抗によって、二重の歓びを得ていた。一つは、一個の人間として、他人から恨まれ殺されんとすることによって、初めて自分も人間の世界へ一歩踏み入れることが許されたように覚えたことである。もう一つは、家中において、打物取っては俊捷第一の噂ある与四郎が必死の匕首を、物の見事に取り押えたことであった。この勝負に、嘘や佯《いつわり》があろうとは思えなかった。彼は、久し振りに勝利の快感を、なんの疑惑なしに、楽しむことができた。忠直卿は、この頃から胸のうちに腐りついている鬱懐の一端が解け始めて、明かな光明を見たように思われた。
「ただこのままに、お手打ちを」と嘆願する与四郎は、なんのお咎めもなく下げられたばかりでなく、与四郎の妻も、即刻お暇を賜った。
が、忠直卿のこの歓びも、決して長くは続かなかった。
与四郎夫婦は、城中から下げられると、その夜、枕を並べて覚悟の自殺を遂げてしまった、なんのために死んだのか、確かにはわからなかったが、おそらく相伝の主君に刃《やいば》を向けたのを恥じたのと、かつは彼らの命を救った忠直卿の寛仁大度に、感激したためであろう。
が、二人の死を聞いた忠直卿は、少しも歓ばなかった。与四郎が覚悟の自殺をしたところから考えると、彼が匕首をもって忠直卿に迫ったのも、どうやら怪しくなって来た。忠直卿に潔《いさぎよ》く手刃《しゅじん》されんための手段に過ぎなかったようにも思われた、もしそうだとすると、忠直卿が見事にその利腕を取って捻じ倒したのも、紅白仕合に敵の大将を見事に破っていたのと、余り違ったわけのものではなかった。そう考えると、忠直卿は再び暗澹たる絶望的な気持に陥ってしまった。
忠直卿の乱行が、その後益々進んだことは、歴史にある通りである。最後には、家臣をほしいままに手刃《しゅじん》するばかりでなく、無辜《むこ》の良民を捕えて、これに凶刃を加えるに至った。ことに口碑《こうひ》に残る「石の俎《まないた》」の言い伝えは、百世の後なお人に面《おもて》を背けさせるものである。が、忠直卿が、かかる残虐を敢てしたのは、多分臣下が忠直卿を人間扱いにしないので、忠直卿の方でも、おしまいに臣下を人間扱いにしなくなったのかも知れない。
六
しかし、忠直卿の乱行も、無限には続かなかった。放埒《ほうらつ》がたび重なるにつれて、幕府の執政たる土居|大炊頭利勝《おおいのかみとしかつ》、本多|上野介正純《こうずけのすけまさずみ》は、私《ひそか》に越前侯廃絶の策をめぐらした。が、剛強無双の上に、徳川家には嫡々たる忠直卿に、正面からことを計っては、いかなる大変をひき起すかも分からぬので、ついには、忠直卿の御生母なる清涼尼《せいりょうに》を越前へ送って、将軍家の意をそれとなく忠直卿に伝えることにした。
忠直卿は、母君との絶えて久しき対面を欣《よろこ》ばれたが、改易《かいえき》の沙汰を思いのほかにたやすく聞き入れられ、六十七万石の封城を、弊履のごとく捨てられ、配所たる豊後国府内《ぶんごのくにふない》に赴かれた。途中、敦賀にて入道され、法名を一|伯《ぱく》と付けられた。時に元和《げんな》九年五月のことで、忠直卿は三十の年を越したばかりであった。後に豊後府内から同国|津守《つのかみ》に移されて、台所料として幕府から一万石を給され、晩年をこともなく過し、慶安《けいあん》三年九月十日に薨《こう》じた。享年五十六歳であった。
忠直卿の晩年の生活については、なんらの史実も伝わっていない。ただ、忠直卿警護の任に当っていた府
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