つれて、幕府の執政たる土居|大炊頭利勝《おおいのかみとしかつ》、本多|上野介正純《こうずけのすけまさずみ》は、私《ひそか》に越前侯廃絶の策をめぐらした。が、剛強無双の上に、徳川家には嫡々たる忠直卿に、正面からことを計っては、いかなる大変をひき起すかも分からぬので、ついには、忠直卿の御生母なる清涼尼《せいりょうに》を越前へ送って、将軍家の意をそれとなく忠直卿に伝えることにした。
忠直卿は、母君との絶えて久しき対面を欣《よろこ》ばれたが、改易《かいえき》の沙汰を思いのほかにたやすく聞き入れられ、六十七万石の封城を、弊履のごとく捨てられ、配所たる豊後国府内《ぶんごのくにふない》に赴かれた。途中、敦賀にて入道され、法名を一|伯《ぱく》と付けられた。時に元和《げんな》九年五月のことで、忠直卿は三十の年を越したばかりであった。後に豊後府内から同国|津守《つのかみ》に移されて、台所料として幕府から一万石を給され、晩年をこともなく過し、慶安《けいあん》三年九月十日に薨《こう》じた。享年五十六歳であった。
忠直卿の晩年の生活については、なんらの史実も伝わっていない。ただ、忠直卿警護の任に当っていた府
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