郎に対して、一種の懐しさをさえ覚えた。主従の境を隔つる膜が除かれて、ただ人間同士として、向い合っているように思われた。
与四郎は、畳の上を三反ばかり滑り寄ると、地獄の底からでも、洩れるような呻き声を出した。
「殿! 主従の道も、人倫の大道よりは小事でござるぞ。妻を奪われましたお恨み、かくのごとく申し上げまするぞ」と、いうかと思うと、与四郎は飛燕のごとく身を躍らせて、忠直卿に飛びかかった。その右の手には、早くも匕首《あいくち》が光っていた。が、与四郎は、軽捷な忠直卿にわけもなく利腕《ききうで》を取られて、そこに捻じ伏せられてしまった。近習の一人は、気を利かせたつもりで、小姓の持っていた忠直卿の佩刀《はいとう》を彼に手渡そうとした。が、忠直卿はかえってその男を斥《しりぞ》けた。
「与四郎! さすがに其方《そち》は武士じゃのう」と、いいながら、忠直卿は取っていた与四郎の手を放した。与四郎は、匕首を持ったまま、面《おもて》も揚げず、そこに平伏した。
「其方の女房も、さすがに命を召さるるとも、余が言葉に従わぬと申しおった。余の家来には珍しい者どもじゃ」と、いったまま、忠直卿は心から快げに哄笑《
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