思ったらしく、忠直卿が突き出す槍先に、故意に身を当てるようにして、右の肩口をぐさと貫かれてしまった。
 忠直卿は、見事に昨夜の欝憤を晴らした。が、それは彼の心に、新しい淋しさを植えつけたに過ぎなかった。左太夫も右近も、自分の命を賭してまで、彼らの嘘を守ってしまったことである。
 忠直卿は、その夜遅く、傷のまま自分の屋敷に運ばれた右近と左太夫との二人が、時刻を前後して腹を割《さ》いて死んだという知らせを聞いて、暗然たる心持にならずにはいられなかった。
 忠直卿は、つくづく考えた。自分と彼らとの間には、虚偽の膜がかかっている。その膜を、その偽りの膜を彼らは必死になって支えているのだ。その偽りは、浮ついた偽りでなく、必死の懸命の偽りである。忠直卿は、今日真槍をもって、その偽りの膜を必死になって突き破ろうとしたのだが、その破れは、彼らの血によってたちまち修繕されてしまった。自分と家来との間には、依然としてその膜がかかっている。その膜の向うでは、人間が人間らしく本当に交際《つきあ》っている。が、彼らが一旦自分に向うとなると、皆その膜を頭から被《かぶ》っている。忠直卿は自分一人、膜のこちらに取り残されていることを思い出すと、苛々《いらいら》した淋しさが猛然として自分の心身を襲って来るのをおぼえた。

          四

 真槍の仕合があって以来、殿の御癇癖《ごかんぺき》が募ったという警報が、一城の人心をして、忠直卿に対して恟々《きょうきょう》たらしめた。殿の御前だというと、小姓たちは瞳を据え息を凝らして、微動さえおろそかにはしなかった。近習の者も、一足進み一足退くにも儀礼を正しゅうして、微瑕《びか》だに犯さぬことを念とした。君臣の間に多少は存在していた心安さが跡を滅して、君前には粛殺たる気が漂った。家臣たちは君前から退くと、今までにない心身の疲労を覚えた。
 しかし、君臣の間がこうして荒《すさ》み始めようとするのに気がついたのは、決して家来の方ばかりではなかった。忠直卿は、ある日近習の一人が、自分に家老たちからの書状を捧げるとて、四、五段の彼方からいざり寄ろうとするのを見て、
「ずっと遠慮いたさず前へ出よ! さような礼儀には及ばぬぞ」といった。が、それは好意から出た注意というよりも、焦燥から出た叱責に近かった。侍臣は、主君の言葉によって、元の心安さに帰ろうとした。が、そうした意識を伴った心安さの奥には、ごつごつとした骨があった。
 真槍の仕合以来、忠直卿は忘れたかのように、武術の稽古から身を遠ざけた。毎日日課のように続けていた武術仕合を中止したばかりでなく、木刀を取り、稽古槍を手にすることさえなくなった。
 威張ってはいたが寛闊で、乱暴ではあったが無邪気な青年君主であった忠直卿は、ふっつりと木刀や半弓を手にしなくなった代りに、酒杯を手にする日が多くなった。少年時代から豪酒の素質を持ってはいたが、酒に淫することなどは、決してなかったのが、今では大杯をしきりに傾けて、乱酒の萌《きざし》がようやく現れた。
 ある夜の酒宴の席であった。忠直卿の機嫌がいつになく晴々しかった。すると、彼にとっては第一の寵臣である増田勘之介《ますだかんのすけ》という小姓が、彼の大杯になみなみと酌をしながら、
「殿には、何故この頃兵法座敷には渡らされませぬか。先頃のお手柄にちと御慢心遊ばして、御怠慢とお見受け申しまする」といった。彼は、こういうことによって、主君に対する親しみを十分見せたつもりであった。
 すると、思いがけもなく、忠直卿の顔は急に色を変じた。つと、そばにあった杯盤を、取るよりも早く、勘之介の面上を目がけて発矢《はっし》とばかりに投げ付けた。主君から、予期せざる暴行を受けて、勘之介ははっと色を変じたが、忠義一途の彼は、決して身体をかわさなかった。彼はその杯盤を真向に受けて、白い面から血を流しながら、その場に平伏した。
 忠直卿は、物をもいわず立ち上ると、そのまま奥殿へ入ってしまった。同僚の誰彼が駆け寄って慰めながら、勘之介を引き起こした。
 勘之介は、その日、病《やまい》と称して宿へ下ったが、その夜の明けるを待たず切腹した。
 忠直脚は、それを聞くと、ただ淋しく苦笑したばかりであった。
 そのことがあってから、十日ばかりも経った頃だった。忠直卿は、老家老の小山|丹後《たんご》と碁を囲んでいた。老人と忠直卿とは、相碁であった。が、二、三年来、老人はだんだん負け越すことが多かった。その日も、丹後は忠直卿のために、三回ばかり続けざまに敗れた。すると、老人は人の好きそうな微笑を示しながら、
「殿は近頃、いかい御上達じゃ。老人ではとてもお相手がなり申さぬわ」といった。
 と、今まで晴れやかに続けざまの快勝を享楽していたらしい忠直卿の面を、暗欝の陰影が掠《かす》
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