が、非道無残な振舞いは寸毫もなかったので、今日の忠直卿の振舞いを見て、家中の者が色を変じたのも無理ではなかった。
が、忠直卿が今日真槍を手にしたのは、左太夫、右近に対する消し難い憎しみから出たとはいえ、一つには自分の正真の腕前を知りたいという希望もあった。真槍で立ち向うならば、彼らも無下に負けはしまい、秘術を尽くして立ち向うに違いない。さすれば自分の真の力量も分かる。もしそのために、自分が手を負うことがあっても、偽りの勝利に狂喜しているよりも、どれほど気持がよいか知れぬと、心のうちで思った。
「それ! 真槍の用意いたせ」と、忠直卿が命ずると、かねて用意してあったのだろう、小姓が二人、各々一本の大身の槍を重たそうにもたげて、忠直卿主従の間に持ち出した。
「それ! 左太夫用意せい!」といいながら、忠直卿は手馴れた三間柄の長槍の穂鞘を払った。
槍鍛冶の名手、備後貞包《びんごさだかね》の鍛えた七寸に近い鋒先から迸《ほとばし》る殺気が、一座の人々の心を冷たく圧した。
今まで、じっとして主君忠直の振舞いを看過していた国老の本多土佐は、主君が鋒先を払われるや否や突如として忠直卿の御前に出でた。
「殿! お気が狂わせられたか。大切の御身をもって、みだりに剣戟《けんげき》を弄《もてあそ》ばれ家臣の者を傷つけられては、公儀に聞えても容易ならぬ儀でござる。平にお止り下されい」と、老眼をしばたたきながら、必死になって申し上げた。
「爺か! 止めだて無用じゃ。今日の真槍の仕合は、忠直六十七万石の家国に易《か》えてもと、思い立った一儀じゃ。止めだて一切無用じゃ」と、忠直卿は凜然といい放った。そこには秋霜のごとく犯しがたき威厳が伴った。こうした場合、これまでも忠直卿の意志は絶対のものであった。土佐は口を緘《つぐ》んだまま、悄然として引き退いた。
左太夫は、もう先刻から十分に覚悟をしていた。昨夜の立話が殿のお耳に入ったための御成敗かと思えば、彼にはなんとも文句のいいようはなかった。それは家来として当然受くべき成敗であった。それを、かかる真槍仕合にかこつけての成敗かと思えば、彼はそこに忠直卿の好意をさえ感ずるように思った。彼は主君の真槍に貫かれて潔く死にたいと思った。
「左太夫、いかにも真槍をもって、お相手をいたしまする」と、思い切っていった。見物席に左太夫の不遜に対する叱責の声が洩れた。忠直卿は苦笑した。
「それでこそ、忠直の家臣じゃ。主と思うな。隙があれば、遠慮いたさず突け!」
こういいながら、忠直卿は槍を扱《しご》いて二、三間後へ退りながら、位を取られた。
左太夫も、真槍の鞘を払い、
「御免!」と叫びながら主君に立ち向った。
一座の者は、凄まじい殺気に閉じられて、身の毛もよだち、息を詰めて、ただ茫然と主従の決闘を見守るばかりであった。
忠直卿は、自分の本当の力量を如実にさえ知ることができれば、思い残すことはないとさえ、思い込んでいた。従って国主という自覚もなく、相手が臣下であるという考えもなく、ただ勇気凜然として立ち向われた。
が、左太夫は、最初から覚悟をきめていた。三合ばかり槍を合すと、彼は忠直卿の槍を左の高股に受けて、どうと地響き打たせて、のけ様に倒れた。
見物席の人々は一斉に深い溜息を洩した。左太夫の傷ついた身体は、同僚の誰彼によってたちまち運び去られた。
が、忠直卿の心には、勝利の快感は少しもなかった。左太夫の負けが、昨日と同じく意識しての負けであることが、まざまざと分かったので、忠直卿の心は昨夜にもまして淋しかった。左太夫めは、命を賭してまで、偽りの勝利を主君にくらわせているのだと思うと、忠直卿の心の焦躁と淋しさと頼りなさは、さらに底深く植えつけられた。忠直卿は、自分の身を危険に置いても、臣下の身体を犠牲にしても、なお本当のことが知りがたい自分の身を恨んだ。
左太夫が倒れると、右近は少しも悪怯《わるび》れた様子もなく、蒼白な顔に覚悟の瞳を輝かしながら、左太夫の取り落した槍を携《ひっさ》げてそこに立った。
忠直卿は、右近め、昨夜あのように、思いきった言葉を吐いた男であるから、必死の手向いをするに相違ないと、消えかかろうとする勇気を鼓《こ》して立ち向かった。
が、この男も左太夫と同じく、自分の罪を深く心のうちに感じていた。そして、潔く主君の長槍に貫かれて、自分の罪を謝そうとしていた。
忠直卿は、五、六合立ち合っているうちに、相手の右近が、急所というべき胸の辺へ、幾度も隙を作るのを見た。この男も、自分の命を捨ててまで主君を欺《あざむ》き終ろうとしているのだと思うと、忠直卿は不快な淋しさに襲われて来た。そして、相手にうまうまと乗せられて勝利を得るのが、ばかばかしくなって来た。
が、右近は一刻も早く主君の槍先に貫かれたいと
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