めたかと思うと、彼はいきなり立ち上って、二人の間に置かれている碁盤を足蹴にした。盤上に並んでいた黒白の石は跳び散って、その二、三は丹後の顔を打った。
 丹後は勝負に勝ちながら、怒り出した主君の心を解するに苦しんだ。彼は、咄瑳に立ち去ろうとする忠直卿の袴の裾を捕えながら、
「いかが遊ばされた! 殿には御乱心か。どのような御趣意あって、丹後めにかような恥辱を与えらるる?」と、狂気のごとくに叫んだ。一徹な老人の心には、忠直卿の不当な仕打ちに対する怒りが、炎の如く燃えた。
 が、忠直卿は、老人の怒りを少しも介意せず、「えい!」と袴を捕えた手を振り放しながら、つっと奥へ去ってしまった。
 老人は、幼年時代から手塩にかけて守り育てた主君から、理不尽な辱しめを受け、老の目に涙を流しながら、口惜しがった。彼は、故中納言秀康卿が、ありし世の寛仁大度な行跡を思い起しながら、永らえて恥を得た身を悔いた。正直な丹後は、盤面に向って追従《ついしょう》負けをするような卑劣な心は、毛頭持っていなかった。
 が、もう忠直卿の心には、家臣の一挙一動は、すべて一色にしか映らなくなっていた。
 老人は、その日家へ帰ると、式服を着て礼を正し、皺腹をかき切って、惜しからぬ身を捨ててしまった。
 忠直卿御乱行という噂が、ようやく封境《ほうきょう》の内外に伝わるようになった。
 勝気の忠直卿は、これまでは、他人に対する優越感を享受するために、よく勝負事を試みたが、このことがあって以来は、その方面にも、ふっつりと手を出さなくなった。
 こうなると、忠直卿の生活がだんだん荒《すさ》んで行くのも無理はなかった。城中にあっては、なすことのないままに酒食に耽り、色《いろ》を漁った。そして、城外に出ては、狩猟にのみ日を暮した。野に鳥を追い、山に獣を狩り立てた。さすがに鳥獣は、国主の出猟であるがために、忠直卿の矢面《やおもて》に好んで飛び出すものはなかった。人間の世界から離れ、こうした自然界に対する時、忠直卿は自分を囲う偽りの膜から身を脱出し得たように、すがすがしい心持がした。

          五

 これまでの忠直卿は、国老たちのいうことは、何かにつけてよく聞かれた。まだ長吉丸といっていた十三歳の昔、父秀康卿の臨終の床に呼ばれて、「父の亡からん後は、国老どもの申すことを父が申すことと心得てよく聞かれよ」と諭《さと》されたことを、大事に守っていた。
 が、この頃の彼は、国政を聞く時にも、すべてを僻《ひが》んで解釈した。家老たちが、ある男を推薦して褒め立てると、彼はその男が食わせ者のように思われて、その男を用うることを、意地にかかって拒んだ。国老たちが、ある男の行跡の非難を申し上げて、閉門の至当であることを主張すると、忠直卿は、その男が硬直な士であるように思われて、いっかな閉門を命ずることを許さなかった。
 越前領一帯、その年は近年希な凶作で、百姓の困苦一方ではなかった。家老たちは、袖を連ねて忠直卿の御前に出《い》で、年貢米の一部免除を願い出《い》でた。が、忠直卿は、家老たちが口を酸《す》っぱくして説けば説くほど、家老たちの建言を採用するのが厭になった。彼自身、心のうちでは百姓に相当な同情を懐きながら、家老たちのいいままになるのが不快であった。そして、家老たちがくどくどと説くのを聞き流しながら、
「ならぬ! ならぬと申せば、しかと相ならぬぞ」と、怒鳴りつけた。なんのために拒んだのか、彼自身にさえ分からなかった。
 こうした感情の食い違いが、主従の間に深くなるにつれ、国政日に荒《すさ》んで、越前侯乱行の噂は江戸の柳営《りゅうえい》にさえ達した。

 が、忠直卿のかかる心持は、彼のもっと根本的な生活の方へも、だんだん食い入って行った。
 ある夜のことであった。彼は宵から奥殿にたて籠って、愛妾たちを前にしながら、しきりに大杯を重ねていた。
 京からはるばると召し下した絹野という美女が、この頃の忠直卿の寵幸を身一つにあつめていた。
 忠直卿は、その夜は暮れて間もない六つ半刻から九つに近い深更まで、酒を飲み続けている。が、酒を飲まぬ愛妾たちは、彼の杯に酒を注ぐという単調な仕事を、幾回となく繰り返しているだけである。
 忠直卿は、ふと酔眼をみひらいて、彼に侍座している愛妾の絹野を見た。ところが、その女は連夜の酒宴に疲れはてたのだろう。主君の御前ということもつい失念してしまったと見え、その二重瞼の美しい目を半眼に閉じながら、うつらうつらと仮睡に落ちようとしている。
 じっと、その面を見ていると、忠直卿は、また更に新しい疑惑に囚われてしまった。ただ、主君という絶大な権力者のために身を委して、朝暮《あけくれ》自分の意志を少しも働かさず、ただ傀儡《かいらい》のように扱われている女の淋しさが、その不覚な
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