か》や、毛利|豊前守《ぶぜんのかみ》などが、最後の一戦を待っているばかりであった。
将軍秀忠は、この日|寅《とら》の刻に出馬した。松平|筑前守利常《ちくぜんのかみとしつね》、加藤|左馬助嘉明《さまのすけよしあき》、 黒田|甲斐守長政《かいのかみながまさ》を第一の先手として旗を岡山の方へと進めた。
家康は卯《う》の刻、輿《こし》にて進発した。藤堂高虎《とうどうたかとら》が来合わせて、
「今日は御具足を召さるべきに」というと、家康は例のわるがしこそうな微笑を洩しながら、
「大坂の小伜を討つに、具足は不用じゃわ」といって、白袷《しろあわせ》に茶色の羽織を着、下括《しもくく》りの袴《はかま》を穿いて手には払子《ほっす》を持って絶えず群がってくる飛蠅《とびはえ》を払っていた。内藤|掃部頭正成《かもんのかみまさなり》、植村|出羽守家政《でわのかみいえまさ》、板倉|内膳正重正《ないぜんのしょうしげまさ》ら近臣三十人ばかりが輿に従って進んだ。
本多|佐渡守正純《さどのかみまさずみ》は、家康と寸も違わぬ服装で、山輿に乗って家康の後に、すぐ引き添うた。
見ると、岡山口から天王寺口にかけて、十五万に余る惣軍は、旗差物を初夏の風に翻し、兜の前立物を日に輝かし、隊伍を整え陣を堅めて、攻撃の令の下るのを今や遅しと待っていた。
が、攻撃の令は容易に下らないのみか、御所の使番が三騎、白馬を飛ばして、諸陣の間を駆け回りながら、
「義直《よしなお》、頼宣《よりのぶ》の両卿を、とりかわせ給うにより、先手|軍《いくさ》を始めることしばらく延引し、馬をば一、二町も退け、人々馬より下り、槍を手にし重ねての命を待つべし」と、触れ渡った。
家康も、今日を最後の手合せと見て、愛子の義直、頼宣の二卿に兜首の一つでも取らせてやりたいという心があったのだろう。が、この布令をきいた気早の水野勝成《みずのかつなり》は、使番を尻目にかけながら、
「はや巳《み》の刻に及び候。茶臼山の敵陣次第にかさみ見えて候。速かに戦いを取り結びて然るべし、と大御所に伝えよ」と怒鳴った。が、この二人の使番が引き取ったかと思うと、再び四騎の使番が惣軍の間を縦横に飛び違って、
「方々、合戦をとりかくべからず、しずかに重ねての令を待つべし」とふれ渡った。
しかし、昨夜の興奮を持ち続けて、ほとんど不眠の有様で、今日の手合せを待っていたわが越
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