て、大御所の激しい叱責がどんな効果を及ぼすかを、彼らは恟々《きょうきょう》として考えねばならなかった。
 彼らが帰って来たと聞くと、忠直卿はすぐ彼らを呼び出した。
「お祖父様は何と仰せられた。定めし、所労のお言葉をでも賜わったであろう」と、忠直卿は機嫌よく微笑をさえ含んできいた。そうきかれると、家老たちは今さらの如く狼狽した。が、ようやく覚悟の臍《ほぞ》を決めたと見えて、その中の一人は恐る恐る、
「いかいお思召し違いにござります。大御所様には、今日越前勢が合戦の手に合わざったを、お怨みにござります」といったまま、色をかえて平伏《ひれふ》した。
 人から非難され叱責されるという感情を、少しも経験したことのない忠直卿は、その感情に対してなんらの抵抗力も節制力も持っていなかった。
「えい! 何という仰《おお》せだ。この忠直が御先《おさき》を所望してあったを、お許されもせいで、左様な無体《むたい》を仰せらるる。所詮は、忠直に死ね! というお祖父様の謎じゃ。其方たちも死ね! 我も死ぬ! 明日の戦いには、主従|挙《こぞ》って鋒鏑《ほうてき》に血を注ぎ、城下に尸《かばね》を晒《さら》すばかりじゃ。軍兵にも、そう伝えて覚悟いたさせよ」と叫んだ忠直卿は、膝に置いていた両手をぶるぶると震わせたかと思うと、どうにも堪らないように、小姓の持っていた長光《ながみつ》の佩刀《はいとう》を抜き放って、家老たちの面前へ突きつけながら、
「見い! この長光で秀頼《ひでより》公のお首《しるし》をいただいて、お祖父様の顔に突きつけてみせるぞ」と、いうかと思うと、その太刀を二、三度、座りながら打ち振った。まだ二十を出たばかりの忠直卿は、時々こうした狂的に近い発作にとらわれるのであった。
 家老たちも、御父君秀康卿以来の癇癪《かんしゃく》を知っているために、ただ疾風《はやて》の過ぎるのを待つように耳を塞いで突伏《つっぷ》しているばかりであった。

 元和《げんな》元年五月七日の朝は、数日来の陰天名残りなく晴れて、天色ことのほか和清《わせい》であった。
 大坂の落城は、もう時間の問題であった。後藤又兵衛、木村|長門《ながと》、薄田隼人生《すすきだはいとのしょう》ら[#「隼人生ら」はママ]、名ある大将は、六日の戦いに多くは覚悟の討死を遂げてしまって、ただ真田|左衛門《さえもん》や長曾我部盛親《ちょうそがべもりち
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