、僧都は負われながら脚《あし》でその男の腰をぐっとしめつけた。まるで、腰が切れそうである。男は、びっくりして(失礼な事を申しました。お望みのところへ参ります)と、云った。すると、僧都は(宴《うたげ》の松原へ行って月見をしたい)というと、男はそこまで負って行った。そして、どうぞ降りて下さいといったが、下りようとしない。ゆうゆうと月にうそぶいてから(右近《うこん》の馬場が恋しくなった。あすこへ行け)と、いうと、男は(そんなには、参れません。もう、御かんべんを)と云うと、僧都はまた脚をぐっとしめつけた。すると男は(参ります。参ります)と悲鳴をあげたので、僧都は脚をゆるめた。男は仕方なく、右近の馬場へ行った。そこで、歌など口ずさんでから、今度は喜辻の馬場へ歩けといった。そして、僧都の宿所まで負われて来たときはもう暁《あかつき》近くで、男はへたへたになっていた。僧都は男の背中から下りてから、その男に衣をぬいでやったが、男は地面にうずくまったまま、しばらくの間は起き上れそうにもなかった。
もう一人もやはり僧侶《そうりょ》で、広沢《ひろさわ》の寛朝僧正《かんちょうそうじょう》という人である。大僧正になった人で、仏教の方でも有名であり、宇多天皇の皇子の式部卿《しきぶきょう》の宮の御子《みこ》である。この人は、広沢に住んでいたが、同時に仁和寺《にんなじ》の別当をも兼ねていた。別当というのは、検非違使《けびいし》の長官をも云うのだが、神社仏寺の事務総長をも云うのである。ある時仁和寺が修理工事を始めていた頃の話である。
ある夕方、寛朝僧正は、もう工事がどの位進んだか見たくなって、一人で高足駄《たかあしだ》をはき、杖《つえ》をついて、工事の現場を視察していた。現場には、足場のために、高いやぐらが組んである。その柱をくぐりながら見ていると、烏帽子《えぼし》を引き垂れて着た男が、つかつかと寄って、僧正の前に立った。見ると半ばかくすようにではあるが、刀をぬいて、それを逆手に持っている。
僧正、これを見て(何の用ぞ)ときくと、男は片膝《かたひざ》をついて、(自分は御存じないものである。あまりに寒さに堪《た》えないので、お召《め》しになっている衣物を一つ二つ賜《たまわ》りたいのである)と、云ったが、今にも飛びかかりそうである。
僧正は(それはわけもないことだが、なぜ素直に頼まないのか。そのやり方が怪《け》しからないではないか)と、いうと、横に立ち廻ったかと思うと、男の尻《しり》をハタと蹴《け》った。すると、男はたちまち姿が見えなくなった。僧正はおかしいと思いながら周囲を見たが、どこにもいない。それで、庫裡《くり》の方へ行って、人を呼んだ。法師達が出て来ると、(今、わしを剥《は》ごうとする者がいたのだが、急に見えなくなった。灯をともしてさがしてくれ)と、云いつけた。十人ばかりの僧が、手に手に灯を持ってさがしまわっていたが、そのうちの一人が上をさして(やあ、あすこにいる)と云うので皆が見上げると、一人の黒い装束《しょうぞく》をした男が、足場のために作ったやぐらの柱と柱の間に、はさまれて身動きが出来ずに、むくむく動いているのであった。二、三人昇って見るとさすがに、刀だけは持っていたが、ぼんやりした顔をして、目ばかりパチパチさしていた。僧正のところへ連れて来ると、僧正は(老法師とても馬鹿にしてはいけないぞ。また、わるいことは今後やらない方がいい)と云って着ていた衣の綿の厚いのを脱いでその男へ与えた。
これらの大力物語のいずれも誇張《こちょう》に違いないが、その誇張が空とぼけていて、ほほえましいものである。この話なども、蹴られて、積んであった材木の上にのっかっていた程度であろうが、それを話しているうちに、だんだんやぐらの上にのせてしまったのであろう。
底本:「おかしい話〈ちくま文学の森5〉」筑摩書房
1988(昭和63)年4月29日第1刷発行
1989(平成元)年2月10日第5刷
底本の親本:「筑摩現代文学大系27巻」筑摩書房
1977(昭和52)年
初出:「新大阪新聞」
1947(昭和22)年
入力:内田いつみ
校正:小林繁雄
2009年8月7日作成
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