た。夫人の温情を、想い起す毎に、譲吉の心の空虚は、何時迄も消えなかった。
夫人の三十五日の法事に、近藤家を訪うた譲吉は、夫人の妹に当る早川夫人から「お祝」と書いた一の紙包を渡された。
「富井さん、之は姉が、貴方のお子さんに上げる積《つもり》で買って来た、産衣《うぶぎ》だそうです。丁度、発病する日の朝、松屋で買って来たのだそうです、姉が生きて居《お》れば縫って上げるのでしょうが。」と、夫人は附け加えた。
譲吉は、夫人が最期のその日迄、譲吉の事を考えて居たことを思うと、彼は更に云いようのない感謝に囚《とら》われた。
彼は押し戴くようにして、近藤夫人の最後の贈物を受け取った。
が、夫は決して最後の贈物ではなかった。
夫から四五日して譲吉は、社を少し早目に引いて本郷の家へ帰って来た。そして、大通りを曲って自分の家のある路地へ這入《はい》ると直ぐ、其処にある水道|栓《せん》で、彼の妻が洗い物をして居た。彼が不意に、
「おい!」と声を掛けると、妻は「お帰りなさい。」とも云わない前から、
「貴方、到頭大島が出来たわ。上下《うえした》揃ってよ。」
と、嬉しそうに大きな声を立てた。
「何だ! 俺のがかい? 一体何うしてだ。」
と、彼は半信半疑で訊《き》き返した。
「近藤の奥さんのお遺物《かたみ》よ。先刻《さっき》、お使が持って来たのよ。」
と、妻は洗い物を早々に片づけ始めた。
「えい! 本当かい。」
と、譲吉は軽いショックを感じた。
「本当ですとも、行って御覧なさい! 座敷へ拡げてあるわ。」
彼は妻よりも、一足先に家へ這入った。如何《いか》にも妻が云った通り、座敷の真中に、女物に仕立てられた大島の羽織と着物とが、拡げられて居た。裏を返して見ると、紅絹裏《もみうら》の色が彼の眼に、痛々しく映った。
「いい柄だわね、之なら貴方だって着られるわ。直ぐ解いて、縫わしにやりましょう。夫とも、一度洗張りをしなければいけないでしょうか。」と、続いて這入って来た妻は、大島を手に取って、つくづくと眺めて居る。
譲吉も、自分達の望んで居た、大島が出来た事に、多少の満足を感ぜぬわけには行かなかった。が、一生の恩人である近藤夫人を失って、大島の揃を得た譲吉の心は、彼の妻が想像して居る程単純な明るいものとは、全く違って居た。
[#地から2字上げ](大正七年六月)
底本:「現代日本文學大系 44 山本有三・菊池寛集」筑摩書房
入力:網迫
校正:上岡ちなみ
1999年2月2日公開
2005年10月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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