年を交《かわ》る交《がわ》る、幾度も負かした。
相手が下手《へた》なので、余り興味が乗らなかったが、夫でも勝ち続けて居る事は、決して不快ではなかった。その時、ふと気が附くと、譲吉の家の門の前で、自転車が止るような気勢《けはい》がした。『電報!』彼は直覚的にそう思った。彼は電報を受け取る前に、特有な不安を以て、ピンポンのラケットを持つ手を緩《ゆる》めて、門の開くのを待った。果して夫は電報配達夫であった。が、手に持って居るのは、電報の紙片《かみ》ではなく、赤い電話郵便の紙片であった。彼は少し安心した。彼の友人の荒井は、何かと云うと直ぐ電話郵便を利用する男であった。譲吉は「荒井の奴、又|何処《どこ》かへ俺《おれ》を誘いだすのだな。」と思いながら、その赤い紙片を読み始めた。がその文句は、譲吉の夢にも予期しなかった事実を報じて居た。
『コチラノオクサマガ、サクバンオナクナリニ、ナリマシタカラ、オシラセシマス』彼は、こうした文句から激動を受けながら、差出人の名を探ったが、夫は何処にも書いてなかった。が、彼が差出人を確めようとしたのは、彼にとっては余りに重大な事実を、承認する前の躊躇《ちゅうちょ》に過ぎなかった。彼の頭には夫が何人《なんびと》の死を、報じてあるかがもう的確に判って居た。彼は広い東京に於て、オクサマと云われる人に、ただ一人しか知人を持って居なかった。夫は云う迄もなく、近藤夫人である。近藤夫人の死! 夫は他の何人の死より、現在の譲吉に取っては、痛い打撃であった。譲吉は赤い紙片を凝視したまま、一時|茫然《ぼうぜん》として居た。が能《よ》く見ると、発信人新橋二七八一番と、電話番号が書いてある。之は、譲吉が、今迄に幾度も呼び出した、馴染《なじみ》の深い番号であった。前よりも、一層まざまざとした絶望が、譲吉の心を埋めた。
譲吉の顔が、重大《シーリヤス》な色を帯び始めたのを見ると、彼の妻は、譲吉の傍へ寄りながら、
「何処から来たの! 何うしたと云うんです、早く云って下さい。私心配だわ。」と、焦《せ》き立てた。
「近藤の奥さんが、死んだんだ。」彼は故意に平静を装って、妻に云った。
「ヘエー。」と云ったまま、妻は駭《おどろ》いた顔をした。が、夫は夫人の急激な死に対する駭きで、譲吉の感情とは、ピッタリ合うものではなかった。
「困った! 近藤の奥さんに死なれちゃ!」と、譲吉は立ち上って、押入れの方へ歩いた。彼は此場合直ぐ駈《か》け附ける事が、第一の急務である事に気が附いた。不断着を脱いで外行《よそゆ》きに着替えて居ると今迄少しも出なかった涙が、譲吉の頬を伝った。急激な報知《しらせ》の為に、掻《か》き擾《みだ》された感情が静まりかけて、其処に恩人の死と云う事実が、何物にも紛ぎらされずに、彼の心に喰い込んで来たからである。
譲吉とピンポンをして居た、兄弟の少年は、ラケットを手にしながら、譲吉が涙をこぼして居るのを、不思議そうに見て居た。譲吉は、子供に涙を見られるのを可なり気恥しく思ったが、涙は何うしても止まらなかった。
「今晩は、帰らんかも分らないぞ。」譲吉は袴を穿きながら、妻に云った。彼の妻は産婆の家から、帰ってまだ間もない上に、雇う筈《はず》になって居る子守が、まだ見附かって居なかった。他人の家の離座敷を借りて居る為に、要慎《ようじん》はいいようなものの、赤坊を抱《かか》えて一晩|独《ひと》りで留守をする事は、彼女に取っては、可なりの、苦痛に相違なかった。彼女は色を蒼《あお》くして、涙ぐみそうな顔をして居た。彼女に取っては、近藤夫人の死よりも、一晩留守をさされる事が、より大きい苦痛であったのだ。が、譲吉が近藤夫人から受けた恩誼《おんぎ》が、何んなに大きいかを知って居る彼女は、譲吉がその夜帰らぬ事に就いて何等の抗議をもしなかった。
譲吉は、電車に乗った。が、彼は先刻《さっき》からの涙が、まだ続いて居た。三十に近い男が、電車の中で泣いて居る事は、決してよい外観を呈する訳ではなかった。で、彼は窓から外を見るような風をして、涙を時々拭《ぬぐ》って居た。
が、過去に於て近藤夫人から受けた、好意の数々を思い出す度に、稍々《やや》センチメンタルな涙が、後から後からと出て来た。実際夫人は彼に取って、此数年来生活の唯一の保証者であった。彼と夫人との関係は『与えられる』と云う関係に尽きて居た。彼は近藤夫人に対して、何等の恩返しもしなかった。ただ夫人の恩恵を、真正面から受け、夫に対して純な感謝の情を、何時迄も懐《いだ》いて居りたいと、思って居た。恩返しを試むる事は、或《ある》意味に於て恩を受けた者の、利己的《エゴイスチック》な要求に基づいて居る事が多かった。恩を受けて居る事と、夫に対して感謝して居る事とに依って、其処に温い人情関係が作られて居る、若し恩を返してしまったら、其処に対等の関係が生じて、以前の人情関係は、消滅してしまうのだ。また恩を返すと云う事は、恩人に何等かの事件、災害、不幸が起る事を、前提としなければならなかった。従って、恩返しの機会を待つ事は、恩人に何等かの事変が起るのを待つのと、余り距《へだ》たった心持ではないと、彼は思って居た。
こうした心持で、譲吉は恩返しなども、少しも念頭に置かなかった。支那の書物にある『大恩は謝せず』などと云うのと、殆ど同じ心持であった。只《ただ》何時迄も、近藤夫人に対し、純な強い感謝の心を懐いて居たいと、譲吉は思って居た。其上夫人は譲吉に取って、過去の恩人であるばかりでなく、現在に於ても、譲吉の生活の、有力な保証者であった。譲吉は、此半年ばかり生活が順調である為に、殆ど物質上の助力を、夫人に仰いだ事はなかったが、譲吉は心の裡で、自分が疾病や災害で、生活の困難を来たす時、必ず夫人が援《たす》けて呉れる事を信じて居た。夫は譲吉に取って、実生活上の一つの強みであった。譲吉が近藤夫人に対する感謝のもう一つの中心は、夫人が譲吉に払って呉れた信頼であった。譲吉は、最初高商の秀才と云う振込《ふれこ》みで、近藤家の世話になる事になったのだが、譲吉は秀才でないばかりか、可なり怠惰者《なまけもの》に近い方であった。そして、毎年の学年試験には、漸く及第点を取る位であったが、夫人は何時迄も、譲吉を秀才だと考え、頼もしい青年だと思って居た。譲吉は夫人の死に依って生活の保証の一つを失ったと同時に、彼の第一の知己を失った訳であった。
が、譲吉はあまりに、利己的な涙ばかりを出して居た。夫人の死が、譲吉に及ぼした打撃ばかりに就いて泣いて居た。が、夫人の死に就て、譲吉よりももっと大きい打撃を受けた人がまだ沢山あった。夫は無論近藤氏一家の人々であった。家庭中心であった近藤氏の家庭では、夫人は一家の太陽であった。夫の近藤氏が、政党の首領として忙しい身体である為に、夫人は七人の子女から成る大きい家庭を、自分一人で支配せねばならなかった。そして、夫人は母たる愛情を、七人の子供に平等に領《わ》けて居た。譲吉はまだ十六にしかならない令嬢の雪子さんや、十一になったばかりの瑠璃子《るりこ》さんが、夫人の死の為めに受くる愛情生活の破産《バンクラプシイ》を考えると、自分の悲しみなどは恥しいほど、小さいものだと思わずには居られなかった。
六本木の停留場で降り、龍土町《りゅうどちょう》の近藤氏の家の方へ歩いて居る時には、譲吉の涙は忘れたように、乾《かわ》いて居た。
譲吉は、一家が涙で以って、濡《ぬ》れ切って居る所へ、自分一人涙無しに行くのは何となく気が咎《とが》めた。夫かと云って一旦出なくなった涙は、意識しては何うしても出なかった。
が、近藤家の勝手を知った譲吉が、内玄関を上って、夫人の居間であった八畳へ行くと、其処には思い掛なく夫人の代りに、主人の近藤氏が羽織袴で坐って居た。譲吉は悔みの挨拶をしようとしたが急に発作的に起った嗚咽《おえつ》の為に彼は、暫《しばら》くは何うしても、言葉が出なかった。譲吉は、自分の過度のセンチメンタリティが、一種誇張の外観を、呈しはせぬかと思うと、可なり不快であった。彼は出来る丈け早く自分の感情を抑制しようと思ったが、不思議に彼の嗚咽は続いた。而《しか》も、その嗚咽は不思議に、深い感情を伴って居ない軽い発作で、而も余りに大げさな外観を持って居た。彼は自分で自分を卑しんだ。見ると、近藤氏は右の手を、額に加えて、新しく滲《に》じみ出ようとする涙を押えて居た。平生殆ど喜怒を現した事のない主人の、男性的な涙を見た時は、譲吉は愈々自分のセンチメンタリティを卑しんだ。夫でも、彼の嗚咽は尚無用に続いて居た。
「離れに置いてあるから、直ぐ彼方《あっち》へ行って呉れ。」と、主人は落着いた声で言った。
彼は直ぐ奥の離れへ行った。紫色の御召を着た令嬢の雪子さんと、瑠璃子さんが、泣顔を上げて譲吉の顔をチラリと見た。
何時もは、此の二人の令嬢を、世の中で最も幸福な女の子だと思って居た譲吉は、今日は全く反対の考を懐《いだ》かねばならなかった。夫人の遺骸《いがい》は、十畳間の中央に、裾模様《すそもよう》の黒縮緬《くろちりめん》、紋附を逆さまに掛けられて、静に横たわって居た。譲吉は、徐《おもむ》ろに遺骸の傍に進んだ。そして両手を突いて頭を下げた。口の裡で夫人から受けた高恩を謝した。涙がまた新しく頬を伝った。夫人は急激な尿毒症に襲われ、僅か五時間の病《わずら》いで殪《たお》れたのであった。
夫からの三日間、譲吉はお通夜《つや》の席に連った。彼はお通夜などと云う仏教の形式に、反感を懐いて居たが、然し自分の悲痛や夫人に対する愛慕を、こうした形式で現わす外、何うとも仕様がなかった。
本当に悲しんで居る人々と、社交上の義理で悲しみを装って居る人々との間に交って、譲吉は、自分一人の特有な悲しみを守って居た。
殊に、夫人が仏教の信者であった為めに、仏教の形式主義《フォマリズム》が、飽く迄もこの悲しみの家を支配して居た。坊主が、眠むそうな声をして、阿弥陀経《あみだきょう》などを読み上げるたびに、譲吉は却《かえ》って自分の純な悲痛の感情が、傷《きずつ》けられるのを覚えた。殊に、初てのお通夜の晩に、菩提寺《ぼだいじ》の住職がお説教をしたが、その坊主は自分の説教に箔《はく》を附ける為か、英語を交じえたりした。
「刹那《せつな》即《すなわ》ちモーメントの出来事を……」と、云ったような言葉遣いが、譲吉の僧侶に対する反感を、一層強めた。殊にその坊主が、
「米国のロックフェラア曰《いわ》く『人生は死に向って不断に進軍|喇叭《らっぱ》を吹いて居る』と、遉《さすが》は米国の大学者丈あって、真理を道破して居るようです……」と云った時には、譲吉は馬鹿々々しくなって、席を脱《はず》した。恐らくこの男は詩人ロングフェロウの言葉を聞き囓《か》じって居たのを、大富豪ロックフェラアに結び附けて而もロックフェラアを大学者にしてしまったに相違ない。譲吉は、最も厳粛な筈の、第一夜のお通夜の晩に、こうした出鱈目《でたらめ》を云って居る僧侶その者に対して、憐憫《れんびん》を感ずると同時に、軽い反感を覚えるのを、何うともする事が出来なかった。
第二夜のお通夜の人々は、第一夜の人々よりも、お通夜に相当な感情を持ち合わして居なかった。更に第三夜になると、近藤夫人とは生前には、一度も顔を合わしたことのないような人が、眠い眼をこすって居た。
葬式の日に於ても譲吉は、多少の不満を感ぜずに居られなかった。譲吉と、夫人との間には多くの僧侶が介在し、多くの縁者親戚が介在し、譲吉は単なる会葬者の一人として、遠くから、夫人の遺骸に訣別《けつべつ》の涙を手向《たむ》けたに過ぎなかった。
京都からワザワザ上京したと云う御連枝が、音頭《おんど》を取って唱える正信偈《しょうしんげ》は、譲吉の哀悼の心を無用に焦立たせたに過ぎなかった。
夫人が、死んでから二三週間、譲吉は、自分の心に生じた空虚を明かに感じた。夫人は彼に取ってもう掛換《かけがえ》のない人であった。譲吉が現在の生活を享《う》けて居るのは、殆ど夫人の力であっ
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