る事が、より大きい苦痛であったのだ。が、譲吉が近藤夫人から受けた恩誼《おんぎ》が、何んなに大きいかを知って居る彼女は、譲吉がその夜帰らぬ事に就いて何等の抗議をもしなかった。
 譲吉は、電車に乗った。が、彼は先刻《さっき》からの涙が、まだ続いて居た。三十に近い男が、電車の中で泣いて居る事は、決してよい外観を呈する訳ではなかった。で、彼は窓から外を見るような風をして、涙を時々拭《ぬぐ》って居た。
 が、過去に於て近藤夫人から受けた、好意の数々を思い出す度に、稍々《やや》センチメンタルな涙が、後から後からと出て来た。実際夫人は彼に取って、此数年来生活の唯一の保証者であった。彼と夫人との関係は『与えられる』と云う関係に尽きて居た。彼は近藤夫人に対して、何等の恩返しもしなかった。ただ夫人の恩恵を、真正面から受け、夫に対して純な感謝の情を、何時迄も懐《いだ》いて居りたいと、思って居た。恩返しを試むる事は、或《ある》意味に於て恩を受けた者の、利己的《エゴイスチック》な要求に基づいて居る事が多かった。恩を受けて居る事と、夫に対して感謝して居る事とに依って、其処に温い人情関係が作られて居る、若し恩を返し
前へ 次へ
全23ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング