って、押入れの方へ歩いた。彼は此場合直ぐ駈《か》け附ける事が、第一の急務である事に気が附いた。不断着を脱いで外行《よそゆ》きに着替えて居ると今迄少しも出なかった涙が、譲吉の頬を伝った。急激な報知《しらせ》の為に、掻《か》き擾《みだ》された感情が静まりかけて、其処に恩人の死と云う事実が、何物にも紛ぎらされずに、彼の心に喰い込んで来たからである。
 譲吉とピンポンをして居た、兄弟の少年は、ラケットを手にしながら、譲吉が涙をこぼして居るのを、不思議そうに見て居た。譲吉は、子供に涙を見られるのを可なり気恥しく思ったが、涙は何うしても止まらなかった。
「今晩は、帰らんかも分らないぞ。」譲吉は袴を穿きながら、妻に云った。彼の妻は産婆の家から、帰ってまだ間もない上に、雇う筈《はず》になって居る子守が、まだ見附かって居なかった。他人の家の離座敷を借りて居る為に、要慎《ようじん》はいいようなものの、赤坊を抱《かか》えて一晩|独《ひと》りで留守をする事は、彼女に取っては、可なりの、苦痛に相違なかった。彼女は色を蒼《あお》くして、涙ぐみそうな顔をして居た。彼女に取っては、近藤夫人の死よりも、一晩留守をさされ
前へ 次へ
全23ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング