大島が出来る話
菊池寛

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)辛《から》く

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)洋服|丈《だけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](大正七年六月)
−−

 苦学こそしなかったが、他人から学資を補助されて、辛《から》く学校を卒業した譲吉は、学生時代は勿論《もちろん》卒業してからの一年間は、自分の衣類や、身の廻りの物を、気にし得る余裕は少しもなかった。
 学生で居た頃は、彼はニコニコの染絣《そめがすり》などを着て居た。高等程度の学生としては、粗服に過ぎて居た。が、衣類に対しては、無感覚で無頓着であった譲吉は、自分の着て居る絣が、ニコニコであるか何であるかさえ知らなかった。
 そして豪放と云う看板の下に、自分の粗服を少しも気に掛けまいとした。実際また気に掛けても居なかった。
 が、譲吉が一旦学校を卒業してからと云うものは、服装を調《ととの》える必要を痛切に感じ始めたのである。彼が学生時代から、ズーッと補助を受けて居る、近藤氏の世話で××会社に入社した当初は、夫《それ》が不快になるまで、自分の服装の見すぼらしさを感じたのである。
 夫は夏の終であったが、彼は、初《はじめ》て出社すると云うのに、白地の木綿絣を着て居るに過ぎなかった。
 課長と、初対面の挨拶《あいさつ》が済んでから、彼は同僚となるべき人々に、一々紹介された。
「岡村君に吉川君。」と、課長は最初に、二人の青年を紹介した。岡村と云われた青年は、中肉の身体《からだ》にスッキリと合って居る、琥珀《こはく》色の、瀟洒《しょうしゃ》な夏服を着て居た。そして、手際《てぎわ》よく結ばれた玉虫色のネクタイが、此《こ》の男の調った服装の中心を成して居た。吉川と云う方は、明石縮《あかしちぢみ》の単衣《ひとえ》に、藍無地《あいむじ》の絽《ろ》の夏羽織を着て、白っぽい絽の袴《はかま》を穿《は》いて居た。二人とも、五分も隙《すき》のない身装《みなり》である。夏羽織も着て居ない譲吉は、此の二人の調った服装から、可なり不快な圧迫を受けた。夫は、対手《あいて》が人格的に、若《も》しくは学問的に、また道徳的に、自分に優越して居る為に受くる圧迫とは、全く違って居る。考えて見れば下らない事かも知れなかった。が、夫にも拘《かか》わらず、その圧迫は、可なりに重苦しく、不快なものであった。岡村と吉川との、二人ばかりではなかった。その後から紹介された、十五六人の人々は、一人として、譲吉のような、見すぼらしい様子はして居なかった。
 譲吉はその後、一週間ばかり、毎日自分の服装の不備に就《つ》いての、不快な意識を続けて居た。其《そ》の裡《うち》に漸《ようや》く、譲吉の世話になって居る、近藤夫人の好意になる背広が、出来上ったのであった。
 自分の家が貧しい為、何等《なんら》の金銭上の補助を仰ぎ得ない譲吉に取っては、近藤夫人が何かにつけて唯一の頼りであった。譲吉が高等商業の予科に在学中、故郷に居る父が破産して危く廃学しようとした時、救い上げて呉《く》れたのは、譲吉の同窓の友人であった近藤の父たる近藤氏であった。夫以来譲吉はズーッと、学資を近藤夫人の手から仰いで居た。が、近藤夫人の譲吉に対する厚意は、ただ学資の補助と云う、物質的の恩恵には、止《とど》まらなかった。
 譲吉に対する夫人の贈与なり注意には、常に温い感情が、裏附けられて居た。その温情を譲吉は、沁々《しみじみ》と感じて居るのであった。学資ばかりでなく、譲吉は、衣類や襯衣《シャツ》や、日用品の殆《ほとん》ど凡《すべ》てを、近藤夫人の厚意に依って、不自由しなかったのである。
 学校を出てからも、譲吉は近藤夫人の庇護《ひご》なしには、何《ど》うともする事が出来なかった。
「富井さんも愈々《いよいよ》口が定《き》まったのなら、孰《いず》れ洋服が入《い》るでしょうから、三越へそう云ってお調《こし》らえなさい。少しいいのを調《こさ》えた方が結局は得ですから。」と譲吉が、入社が定まった事を報告に行くと、夫人は祝辞を述べてから、直《す》ぐこう云い出した。譲吉は夫人に金を借りてでも、洋服を新調したい積《つも》りであったから、夫人のこうした好意は、骨身に浸みる程、有り難く感じたのである。無論、近藤夫人の好意は、洋服|丈《だけ》には止まらなかった。
「色々の身の廻りの物が入るでしょうから。」と云いながら、夫人は新しい十円札を三枚、譲吉の前に差し出した。
 譲吉は、過去に於て幾度《いくたび》、夫人の華奢《きゃしゃ》な手から、こうした贈与を受けたかも知れない。その度に譲吉は、夫人から受くる恩恵に狎《な》れて、純な感謝の念が、一回毎に、薄れて行かぬよう、絶えず自分の心を戒し
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング