めて居た。譲吉は、此日三十円を受けながら、卒業してからも尚《なお》、夫人を煩わして居ることを少しは情なく思ったが、夫人に頼らずには、実際何も出来なかった。が、夫人から、金銭の贈与を受ける事だけは、もう今度でおしまいにしたいと、心の裡で思った。
 夫人の好意に依《よ》る、背広と三十円とは、譲吉が今迄感じて居た、不快な圧迫に対する、最上の対症薬であった。入社した二三週間目からは、譲吉も自分の服装に相当の自信を以て、快活に働いて居たのである。
 その内に、譲吉の生活にも、僅《わず》かながら余裕が生じて来た。殊《こと》に、学校を出た翌年、近藤夫人の尽力で結婚して以来は、更に月々相当の余裕を生じた。夫人は、譲吉の為に相当の資産家の娘を世話して呉れたからである。
 夫に連れて、譲吉の服装も段々調って来た。結婚の時に、近藤夫人は譲吉の為に、フロックコートを新調して呉れたし、その外にも譲吉は、四五着の背広やモーニングを持つようになった。和服も上等ではなかったが、時候に相当した物を、一二着|宛《ずつ》調えて行く事が出来た。殊に彼の妻は、女性に特有な、衣類に対する敏《さと》い感覚と、執着とを持って居た。
「もう、セルを着て居ないと、見っともないわ。」と云い出すと、彼の妻は、譲吉がセルを買ってしまう迄は、五月蠅《うるさ》くその提言を繰返した。譲吉が金の都合で、何《ど》うしても応ぜぬ時などは、自分の小遣銭《こづかいせん》で、黙って買って来て、譲吉に内緒で縫って置いた。そうして、譲吉が改まって外出する時などは、「之《これ》を着て行かない!」と、不意に彼の眼の前に、仕立下ろしの衣物《きもの》を、拡げて見せたりした。
 が、譲吉の力でも、彼の妻の力でも、何うしても、出来ない着物があった。夫は大島絣《おおしまがすり》の揃《そろい》である。殊に譲吉の妻は、彼の為に大島を買う、熱心な主張者であった。
「男には大島が一番よく似合ってよ。貴方《あなた》も、是非大島をお買いなさい、夫も片々じゃ駄目だわ。何うしても羽織と、着物とを揃えなけりゃ。是非お買いなさいよ、一|疋《びき》買うといいんだから、今年の秋迄には是非お買いなさいよ。男は大島に限るわ。」と、彼の妻は、着物の話が出る度に、屹度《きっと》大島を讃美したが、譲吉の月々の余裕と云っても夫は二三十円と、纏《まとま》った金でなかった。又彼の妻としても、一度に三四十円も出す力は持って居なかった。従って一疋六十円以上もする大島は、当然譲吉夫婦の購買力の上に在《あ》った。
「大島を買う金なんかあるもんか。」と、譲吉が妻のしつこい提議に対して、吐出すように云うと、「だから貯金をなさいよ。貴方は喰道楽だから、お金が蓄《たま》らないのよ。毎月五円宛貯金をなさいよ。そしたら、今年の秋迄には、大島が出来るわ。」と彼の妻は、よくこんな事を云って居た。譲吉も冗談に、
「じゃ、その『大島貯金』をでもするかな。」と応じた。が一種の享楽者《エピキュリアン》である彼は、着物を購《あがな》う為に、貯金迄する気は、何うしても起らなかった。が、彼は妻に依って、大島の美点と長所とを詳細に説かれてからは、段々大島に対する執着を覚えて来た。銀座通を歩いて居る時など、よく呉服屋の見本棚の前に足を止めて、其処《そこ》に飾られてある、縞柄《しまがら》のよい大島絣を、熟視して居る自分の姿に気が附いて、思わず苦笑する事も屡々《しばしば》あった。
 その裡に秋が来て、冬物を着るシーズンとなっても、大島の揃は、中々出来る様子は見えなかった。妻はよく譲吉に、
「貴方のように、ケチケチして居ては、何時《いつ》が来たって買えやしないわ。少し無理をしてでも、思切って買うといいんだわ。買った後で余儀なく倹約して埋合せを附ければいいんだわ。」と、云った。金遣いにかけては、貧家に育った譲吉は、可なり小心であった。とても疾病《しっぺい》などの準備として預けてある貯金を、引き出して迄、大島を買う気にはなれなかった。また彼の妻程大島に対して強い執着を、持っても居なかった。
 譲吉に取って、大島の揃は出来ずに、年が暮れた。すると、新年になって、年始|旁々《かたがた》譲吉の家を訪《たず》ねた友人の杉野は、仕立下ろしと見える新しい大島の揃を着て居た。杉野と、もう一人の友人の荒井と、譲吉とは、高商の同窓で社会に出てからも、同じ位の位置に就いて居た。そしてお互の間に、意識はしなかったが、色々な点に於て競争の感情が動いて居ないでもなかった。三人の中で、一番早く眼鏡《めがね》を金縁にしたのは、譲吉であった。すると、一月ばかりして荒井が今迄の鉄縁を金に替えて居た。杉野も亦《また》何時の間にか、金の縁無しを掛けて居た。が、大島を一番早く着たのは、確に杉野に相違なかった。
「何だ! 大島を着て居るじゃないか。」
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