と、譲吉が思わず嘆賞の言葉を洩すと、杉野は、
「何うだ、全盛だろう。」と、一寸《ちょっと》得意そうな顔をした。そして譲吉を可なりに羨《うらやま》しがらせた。
が、冬が去り春が来ても、譲吉に大島は出来なかった。殊に、妊娠をして居る彼の妻の産期が、近づいて来るに従って、色々な出費が嵩《かさ》み、大島を買う事をあれほど強く主張した妻も、もう諦《あきら》めてしまったらしかった。三月に入ってから、彼の妻は到頭女の児を産んだ。譲吉は色々の出費で貯《たくわ》えの過半を費した。妻は猿のように赤い赤ん坊を抱きながら、
「もう親の衣物よりも、子の衣物をこさえなけりゃいけないわ。ねえ! 美奈子! お父さんにいい衣物を沢山こさえて貰《もら》うのね。」と、赤児に頬《ほお》ずりをしながら、譲吉に大島を買う事は、まるで忘れてしまって居るようであった。
夫は、三月の半ば頃で、譲吉の妻が、肥立《ひだち》してから、まだ間もない日曜の事であった。その日は、全く冬が去り切ってしまったように、朝から朗かな日が照って居た。譲吉は、久し振りに暢然《のんびり》として一日を暮して見たいと思った。朝飯が済むと、彼は縁側に寝転《ねころ》んで、芽ぐむばかりになった鴨脚樹《いちょう》の枝の間から、薄緑に晴れ渡った早春の空を眺《なが》めて居た。すると、
「先生!」と、声がして、いつもよく、遊びに来る隣家の子供が、兄弟|連《づれ》でやって来た。譲吉はもう三十に近かったが子供とたわいなく、遊ぶ事が好きで、こうした来客を歓迎した。兄の方が、新しく買ったらしい、ピンポンの道具を持って居た。そして、
「先生! ピンポンを買って貰ったから、しましょう。随分|旨《うま》くなったのだから。」と、云った。
譲吉は、隣家の主人に頼まれて、此の子供達に英語を、ホンの一週間ばかり教えた事があるので、兄弟は今でも譲吉の事を、先生と云って居た。
「あ、やろうやろう、直ぐ負かしてやるから。」譲吉は、実際、ピンポンには自信があった。彼は中学時代には、ピンポンの選手であった。
「先生! 雨戸を一つ外《は》ずせませんか、台にするんだから。」と、弟の方の少年が云った。やがて譲吉も手伝って雨戸が一つ、縁側の上に置かれ、そして、その中央に不完全な網《ネット》が張られた。が、ボールは思う通りには、バウンドしなかった。でも、段違に上手《じょうず》な譲吉は、相手の少年を交《かわ》る交《がわ》る、幾度も負かした。
相手が下手《へた》なので、余り興味が乗らなかったが、夫でも勝ち続けて居る事は、決して不快ではなかった。その時、ふと気が附くと、譲吉の家の門の前で、自転車が止るような気勢《けはい》がした。『電報!』彼は直覚的にそう思った。彼は電報を受け取る前に、特有な不安を以て、ピンポンのラケットを持つ手を緩《ゆる》めて、門の開くのを待った。果して夫は電報配達夫であった。が、手に持って居るのは、電報の紙片《かみ》ではなく、赤い電話郵便の紙片であった。彼は少し安心した。彼の友人の荒井は、何かと云うと直ぐ電話郵便を利用する男であった。譲吉は「荒井の奴、又|何処《どこ》かへ俺《おれ》を誘いだすのだな。」と思いながら、その赤い紙片を読み始めた。がその文句は、譲吉の夢にも予期しなかった事実を報じて居た。
『コチラノオクサマガ、サクバンオナクナリニ、ナリマシタカラ、オシラセシマス』彼は、こうした文句から激動を受けながら、差出人の名を探ったが、夫は何処にも書いてなかった。が、彼が差出人を確めようとしたのは、彼にとっては余りに重大な事実を、承認する前の躊躇《ちゅうちょ》に過ぎなかった。彼の頭には夫が何人《なんびと》の死を、報じてあるかがもう的確に判って居た。彼は広い東京に於て、オクサマと云われる人に、ただ一人しか知人を持って居なかった。夫は云う迄もなく、近藤夫人である。近藤夫人の死! 夫は他の何人の死より、現在の譲吉に取っては、痛い打撃であった。譲吉は赤い紙片を凝視したまま、一時|茫然《ぼうぜん》として居た。が能《よ》く見ると、発信人新橋二七八一番と、電話番号が書いてある。之は、譲吉が、今迄に幾度も呼び出した、馴染《なじみ》の深い番号であった。前よりも、一層まざまざとした絶望が、譲吉の心を埋めた。
譲吉の顔が、重大《シーリヤス》な色を帯び始めたのを見ると、彼の妻は、譲吉の傍へ寄りながら、
「何処から来たの! 何うしたと云うんです、早く云って下さい。私心配だわ。」と、焦《せ》き立てた。
「近藤の奥さんが、死んだんだ。」彼は故意に平静を装って、妻に云った。
「ヘエー。」と云ったまま、妻は駭《おどろ》いた顔をした。が、夫は夫人の急激な死に対する駭きで、譲吉の感情とは、ピッタリ合うものではなかった。
「困った! 近藤の奥さんに死なれちゃ!」と、譲吉は立ち上
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