応じ上京仕り、是迄滞在仕り候へども、市中見廻りの為に御募りに相成り候儀には御座なく候と存じ奉り候」(元治元年五月三日 上書の一節)
 とある。彼にもまた耿々《かう/\》たる志はあつたのだ。時勢を憂へ、時勢を知ることに於て、立場こそ異なれ、敢へて薩長の志士に劣るものではなかつたのである。
 殊に近藤の光栄とすべきは、宮中第一の豪傑であらせられる、久邇宮朝彦親王《くにのみやあさひこしんわう》との関係である。親王の日記には、彼の名前も見え、慶応三年九月十三日の項には、「幕府の辣腕家、原市之進に替るべきものは近藤である。余自身近藤を召し抱へたい」と、畏れ多くも仰せられてゐるのである。
 暴力団の首領と云ふよりも、時流の浪に乗り損つた志士と云ふべきだらう。

   池田屋斬込み

 新撰組結成の翌年、元治元年六月五日は、彼等にとつて、最も記念すべき日であつた。
 即ち、この為に、明治維新が一年遅れたと云はれる。有名な三條小橋、池田屋惣兵衛方斬込み事件が、行はれた日である。
 四條小橋に、升屋喜右衛門と云ふ、古道具屋があつた。主人は三十八九歳で、使用人を二三人使つて、先づ裕福な暮し振りであつた。余
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