ちない位の素養はあつたのであらう。
 その政治上の主義としては、彼の上書に、
「全体我共は尽忠報国の志士、依而今般御召相応じ去二月中遥々上京|仕《つかまつ》り、皇命尊戴[#「皇命尊戴」に傍点]、夷狄攘斥之御英断承知仕り度存ずる志にて、滞京|罷存候《まかりありさふらふ》云々」(文久三年十月十五日上書)
 とある。
 また、祇園一力楼で、会津肥後守の招宴で、薩、土、芸、会等の各藩重職列席の会合でも、彼は堂々とその主張を披瀝し、
「熟《つら/\》愚考仕り候処、只今までは長藩の攘夷は有之《これあり》候へども、真の攘夷とは申されまじく候、この上は公武合体専一致し、其の上幕府において断然と攘夷仰せ出され候はゞ、自然国内も安全とも存じ奉り候」(近藤の手紙の一節)
 と述べてゐる。
 近藤の意見では、公武合体、即ち鞏固なる挙国一致内閣で攘夷すべしと云ふのである。勤皇攘夷、公武合体説であつた。
 彼はこの主義の為に、一死報国の念に燃えてゐたのであるから、新撰組が単なる非常警察と考へられるのには、大いに不満でもあつたらしい。
「私共は昨年以来、尽忠報国の有志を御募《おつのりに》相成《あひな》り、即ち御召に
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