応四年四月二十五日であるが、此の年六月六日発行の「中外新聞」には――閏四月八日、元新撰組の隊長、近藤勇といふ者の首級、関東より来つて三條河原に梟せられたり。其身既に誅戮を蒙りたる者なれば、行の是非を論ぜず、其の勇に至りては惜む可き壮士なりと云はざる者なし――
とある。この頃賊軍として死刑に処せられた者は、今日の共産党被告以上に見られてゐたのであるから、出版物にこれだけ書くだけでも容易でない。賊軍であつても彼の評判は当時に於て、非常によかつた事は、この記事でも分ると思ふ。
勇が生れたのは、天保五年で、近藤周斎の養子となり、新徴組に加はつた頃迄は、剣術も学問も、特に目立つて云ふ程のこともなかつた。
新徴組から分離した時から、勇は漸次頭角を顕して来た。会津藩鈴木丹下の「騒擾《さうぜう》日記」には、
「其内、近藤勇と云ふ者は、知勇《ちゆう》兼備《かねそな》はり、何事を掛合に及候ても無滞《とゞこほりなく》返答致し候者の由」
とあり、この頃から、智勇兼備と云ふやうな讃辞が捧げられてゐる。
彼は東州と号して、相当立派な字を書いてゐる。学問は大したものではないが、当時の剣客としては、人後に落
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