を近親に寄せて、隊員の周旋を依頼し、「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と、気焔を上げてゐる。東国人の近藤勇としては、尤もな言ひ分で、蓋《けだ》し池田屋事変は、当時|兎角《とかく》軽視され勝ちの、関東男児の意気を、上方に示したものと云つてよい。
これから、伏見鳥羽の戦までは、新撰組の黄金時代である。
蛤御門の戦には、先頭に赤地に「誠」といふ字の旗を立てゝ、会津の傑物林権助の指揮の下に奮戦してゐる。
土佐藩の大立物、後藤象二郎に、或る日、近藤勇が会ふと、象二郎は直ぐに、
「拙者は貴公のその腰の物が大嫌ひで」
とやつた。
勇は、苦笑しながら、その刀を遠ざけたと云ふ話があるが、多分この頃のことだらう。
それ程、近藤勇の名は、響きわたつてゐたのである。然《しか》も勇は単なるテロリストとしての自分に飽き足らず、政治的にもぐん/\守護職、所司代、公卿の中へも喰ひ込んで行つたが、順逆を誤つた悲しさ、時勢は日に日に非なりである。
伏見鳥羽の戦《たゝかひ》は、幕軍に対して、致命傷を与へたと同時に、新撰組に徹底的な打撃を与へた。大部隊を中心とする、近世式な砲撃戦に対して、一騎討の戦法は問題でなく
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