、引いては明治維新のために、不幸中の幸と云はねばならない。
桂小五郎も、この事件に就ては、簡単ながら手記を書き、
「天王山に兵を出す、此に基《もとづ》けり」
と結んでゐる。
簡潔ながら、流石《さすが》によく断じてゐる。池田屋に於ける幕府方の暴挙が、如何に長州藩士をして激昂せしめたか。八月十八日の政変以来、隠忍に隠忍を重ねて来た長藩も、遂に堪忍袋の緒を切つたのである。遂に長軍の上洛となり、天王山に本拠を進め、蛤御門《はまぐりごもん》の戦闘となるのである。
少くとも、池田屋事変は、禁門戦争の導火線に、口火を切つたと云ふべきであらう。
近藤勇の最後
この外、池田屋で死んだ志士の中には、大高兄弟、石川潤次郎等、有為の勤皇家がゐた。
いづれも、その屍体は捕方の手に依つて、三條縄手の三縁寺境内へ運ばれて、棄てゝ置かれた。
何しろ、暑い頃なので、後にはこの屍が何人のものか、判明しない程腐つてしまひ、池田屋の使用人を呼び出して、「これは宮部さん、これは大高さん」と識別させたと云ふ話である。
池田屋事変を期として、新撰組は更に一大飛躍を遂げてゐる。
隊員も不足なので、近藤は書
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