りに浪士風人間の出入が激しいので、新撰組では、予てからその様子に不審を懐き、六月五日に思ひ切つて踏み込んでみると果して甲冑十組、鉄砲二三挺、その他長州人との往復文書が数通発見され、その中には、「機会は失はざる様」との頗《すこぶ》る疑はしい文句があつた。
 取り敢へず、武具類を土蔵に収めて封印して主人喜右衛門を壬生の屯所に引致して、拷問したところ、驚く可き陰謀が発見されたのである。
 喜右衛門と云ふのは、仮名でその実は江州の浪人|古高《こだか》俊太郎と云ひ、八月十八日の政変に就て、深く中川宮と松平|容保《かたもり》を怨み、烈風の日を待つて、火を御所の上手に放ち、天機奉仕に参朝する中川宮を始め奉り、守護職松平肥後守を途中に要撃しようとする、計画である。而も古高は、三條通り辺の旅宿客は、いろ/\の藩名を掲げてゐるが大抵は長州人であることまで自白した。
 愕然としてゐる新撰組にとつて、続いて、第二、第三の警報が町役人の手に依つて齎《もた》らされた。
「升屋の土蔵の封印を破つて、武具を奪ひ去つた者がある!」
「三條小路の旅宿池田屋惣兵衛方、及び縄手《なはて》の旅宿四国屋重兵衛方に、長州人や諸浪士が集合して何やら不穏の企みをしてゐる」
 京都市中見廻役として、治安の責任の一半を担つてゐる新撰組は、取り敢へず、黒谷なる京都守護職松平肥後守邸に、応急の措置を求むる為速報した。
 守護職は所司代、松平越中守と協力して、遂に会津、桑名、一橋、彦根、加賀の兵を始め、町奉行、東西与力、同心を動員して、祇園、木屋町、三條通り、その他要所々々を戒厳して、その人員無慮三千余人と称された。空前の警戒陣であつた。
 斯くて、会津藩と新撰組は、午後八時を期して、祇園会所に集合する筈であつたが、会津側が人数の繰出しに時間がかゝり、午後十時近くなるのに、約束の場所に参着しない。
 血気の近藤勇は、一刻を争ふ場合と考へ、独力新撰組を率ゐて、検挙に向ふことになつた。
 隊員三十名を二分して、近藤勇自ら一隊を随へて、池田屋へ、他の一隊は、土方歳三統率して、四国屋へ向つた。
 恰度、祇園祭りの前の夜で、風はあつたが、何となく蒸す夜であつた。
 その時、池田屋では、長州の吉田|稔麿《としまろ》、肥後の宮部|鼎蔵《ていざう》等総勢二十余名が集合し、
「今夜は壬生に押寄せて、古高俊太郎を奪ひ還さう」
 と、云ふので酒を
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