ちない位の素養はあつたのであらう。
その政治上の主義としては、彼の上書に、
「全体我共は尽忠報国の志士、依而今般御召相応じ去二月中遥々上京|仕《つかまつ》り、皇命尊戴[#「皇命尊戴」に傍点]、夷狄攘斥之御英断承知仕り度存ずる志にて、滞京|罷存候《まかりありさふらふ》云々」(文久三年十月十五日上書)
とある。
また、祇園一力楼で、会津肥後守の招宴で、薩、土、芸、会等の各藩重職列席の会合でも、彼は堂々とその主張を披瀝し、
「熟《つら/\》愚考仕り候処、只今までは長藩の攘夷は有之《これあり》候へども、真の攘夷とは申されまじく候、この上は公武合体専一致し、其の上幕府において断然と攘夷仰せ出され候はゞ、自然国内も安全とも存じ奉り候」(近藤の手紙の一節)
と述べてゐる。
近藤の意見では、公武合体、即ち鞏固なる挙国一致内閣で攘夷すべしと云ふのである。勤皇攘夷、公武合体説であつた。
彼はこの主義の為に、一死報国の念に燃えてゐたのであるから、新撰組が単なる非常警察と考へられるのには、大いに不満でもあつたらしい。
「私共は昨年以来、尽忠報国の有志を御募《おつのりに》相成《あひな》り、即ち御召に応じ上京仕り、是迄滞在仕り候へども、市中見廻りの為に御募りに相成り候儀には御座なく候と存じ奉り候」(元治元年五月三日 上書の一節)
とある。彼にもまた耿々《かう/\》たる志はあつたのだ。時勢を憂へ、時勢を知ることに於て、立場こそ異なれ、敢へて薩長の志士に劣るものではなかつたのである。
殊に近藤の光栄とすべきは、宮中第一の豪傑であらせられる、久邇宮朝彦親王《くにのみやあさひこしんわう》との関係である。親王の日記には、彼の名前も見え、慶応三年九月十三日の項には、「幕府の辣腕家、原市之進に替るべきものは近藤である。余自身近藤を召し抱へたい」と、畏れ多くも仰せられてゐるのである。
暴力団の首領と云ふよりも、時流の浪に乗り損つた志士と云ふべきだらう。
池田屋斬込み
新撰組結成の翌年、元治元年六月五日は、彼等にとつて、最も記念すべき日であつた。
即ち、この為に、明治維新が一年遅れたと云はれる。有名な三條小橋、池田屋惣兵衛方斬込み事件が、行はれた日である。
四條小橋に、升屋喜右衛門と云ふ、古道具屋があつた。主人は三十八九歳で、使用人を二三人使つて、先づ裕福な暮し振りであつた。余
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