、引いては明治維新のために、不幸中の幸と云はねばならない。
桂小五郎も、この事件に就ては、簡単ながら手記を書き、
「天王山に兵を出す、此に基《もとづ》けり」
と結んでゐる。
簡潔ながら、流石《さすが》によく断じてゐる。池田屋に於ける幕府方の暴挙が、如何に長州藩士をして激昂せしめたか。八月十八日の政変以来、隠忍に隠忍を重ねて来た長藩も、遂に堪忍袋の緒を切つたのである。遂に長軍の上洛となり、天王山に本拠を進め、蛤御門《はまぐりごもん》の戦闘となるのである。
少くとも、池田屋事変は、禁門戦争の導火線に、口火を切つたと云ふべきであらう。
近藤勇の最後
この外、池田屋で死んだ志士の中には、大高兄弟、石川潤次郎等、有為の勤皇家がゐた。
いづれも、その屍体は捕方の手に依つて、三條縄手の三縁寺境内へ運ばれて、棄てゝ置かれた。
何しろ、暑い頃なので、後にはこの屍が何人のものか、判明しない程腐つてしまひ、池田屋の使用人を呼び出して、「これは宮部さん、これは大高さん」と識別させたと云ふ話である。
池田屋事変を期として、新撰組は更に一大飛躍を遂げてゐる。
隊員も不足なので、近藤は書を近親に寄せて、隊員の周旋を依頼し、「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と、気焔を上げてゐる。東国人の近藤勇としては、尤もな言ひ分で、蓋《けだ》し池田屋事変は、当時|兎角《とかく》軽視され勝ちの、関東男児の意気を、上方に示したものと云つてよい。
これから、伏見鳥羽の戦までは、新撰組の黄金時代である。
蛤御門の戦には、先頭に赤地に「誠」といふ字の旗を立てゝ、会津の傑物林権助の指揮の下に奮戦してゐる。
土佐藩の大立物、後藤象二郎に、或る日、近藤勇が会ふと、象二郎は直ぐに、
「拙者は貴公のその腰の物が大嫌ひで」
とやつた。
勇は、苦笑しながら、その刀を遠ざけたと云ふ話があるが、多分この頃のことだらう。
それ程、近藤勇の名は、響きわたつてゐたのである。然《しか》も勇は単なるテロリストとしての自分に飽き足らず、政治的にもぐん/\守護職、所司代、公卿の中へも喰ひ込んで行つたが、順逆を誤つた悲しさ、時勢は日に日に非なりである。
伏見鳥羽の戦《たゝかひ》は、幕軍に対して、致命傷を与へたと同時に、新撰組に徹底的な打撃を与へた。大部隊を中心とする、近世式な砲撃戦に対して、一騎討の戦法は問題でなく
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