たが、剣を把つては天才的と云はれた沖田には、敵はない。
肩先を斬られたまゝ逃れ、隣家の庭前に監視してゐた、桑藩士本間某を斬り、黒川某に重傷を被《かうむ》らせ、馳せて河原町の藩邸に向つた。併しこの時は、門の扉は固く鎖してあり、稔麿は入ることが出来ない。その身は重傷であり、遂に進退|谷《きは》まつて、門外に自決したのである。この時、年齢二十四であつた。
吉田稔麿は松陰門下の奇才で、この時は長幕調停案の一案を劃して、帰国の途中、京都に寄つて殉難したのである。
この日も、留守居役の乃美織江が頻りに止めると、
「いや直き帰つて来る」
と云つて、殿様からの下され物の小柄等を乃美に托して、出かけて行つたのである。
この時、自分で髪を結《ゆ》つたが、元結《もとゆひ》が三度も切れたので、
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結びても又結びても黒髪の
乱れそめにし世を如何にせん
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と云ふ歌を詠んで、乃美に示したと云ふ。これが遂に、その辞世となつたわけである。
宮部鼎蔵は、乱戦の中に池田屋に於て斃れた。一説には、進退谷まつて階段の下で屠腹して果てたとも云ふ。年は四十五であつた。
宮部は肥後の産、吉田松陰とは親友の仲であり、尊攘派の錚々たる一人で、同志からは先輩の一人として推服された人物である。
松陰嘗て宮部を評して、
「国を憂へ、君に忠、又善く朋友と交はりて信あり、其の人懇篤にして剛毅、余|素《もと》よりその人を異とす」
と云つてゐる。
三條|実美《さねとみ》の信頼篤く、その使命を奉じて四方に使ひし、真木和泉《まきいづみ》と共に年齢手腕共に長者であり、志士の間に最も重きをなした人物であつた。生き残つてゐたら、子孫は侯爵になつたかも知れん。
乃美の手記に依ると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命を拾つたとなつてゐるが、事実は違ふらしい。
この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州の藩邸を訪うて、大島友之丞と暫く対談してゐると、市中が俄《にはか》に騒々しくなつた。
何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ。
この時、せめて木戸孝允の命を剰《あま》したゞけでも、長藩のため
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